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その⑦
看護師から車椅子のレクチャーを受け自分で漕いでみた。結構、腕の力を必要として痛い右手には辛い動作だった。不器用な私は漕ぐのも下手で棟内を蛇行運転した。すると、「危ないわね」と後ろからガラガラ声が聞こえた。振り返って、「済みません、若葉マークな者
で」と言うと2本の杖を突いたその年配者は「だったらどこの教習所よ?」とさらに続けるので困り顔をしていると、「無免許」と笑った。彼女は同室者の山田さんだと直ぐに分かった。
自室の出入り口に戻り深呼吸ひとつして、「こんにちは、昨日お騒がせした近松です」とやや大きめの声で言ってみた。引き籠り生活者にしては上出来だと思った。すると、そろそろと3枚のカーテンが開いた。窓際のベッドの一人は先ほどのガラガラ声の持ち主だった。ガラガラおばさんは「私は山田。病院だからすべての事はお互い様」と歯ブラシをくわえたまま口の周りを白くして言った。
昨晩声をかけてくれた隣の女性は「困った事はなぁい? あっ、私は志村と申します」とにっこりした。彼女は外反母趾術後の装具を片足に履いていた。それは90年代に流行った厚底靴に似て、乾燥した志村さんの髪はヤマンバぽかった。
私の対面のベッドの老人は「アタシはこの病院の外来に火鉢が置いてあったころからの常連だから、何でも聞いてよ~」と杖を振り上げて笑った。彼女は岡本さん。呆けてるわけじゃないけど、この話を私が退院するまでに10回近く繰り返した。
80歳オーバーのお婆ちゃんはみんな明るく、気さくだった。山田さんが「それにしても、あなたの顔はパンダみたいで可愛いわ」と発言し、その場は一瞬、フリーズしたけれど、一人が笑い、皆も笑って、気持ちが解けた。
私は少し面白くなくて「自分だって、カバみたいじゃんか」と胸の中で笑った。彼女はこれが笑いになると思ったのかさらに続けて「なんか、旦那にでも殴られたの?」と言うので、「いえいえ、階段から落ちました。55にもなるのに一人者です。男がいないのにいるように思われて光栄です」と答えた。するとまた笑い。私たちはカーテンを開けてよもやま話をするようになった。
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