第2章 野党共闘。

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≪キャスト≫ 西軍 石田三成(安倍晋三) 東軍 徳川家康(小澤一郎)        小早川秀次(細野豪志)  「今なら勝てる」石田三成の大義なき解散から事ははじまった。 9月28日に解散する彼の考えは、今なら野党側が準備不足。この判断で選挙(大戦)に挑むのであった。  石田三成の 〔表の顔〕安土桃山時代の武将。幼名は佐吉。治部少輔と称す近江の人。豊臣秀吉の寵を得て五奉行の1人となり、特に、経済、財政の面で活躍。佐和山18万石の城主。のちに徳川家康を除こうとして、秀頼を擁して挙兵。関ケ原に敗れて京都で斬首された。(広辞苑) 〔裏の顔〕は正義を信じ、愛を貫く純粋すぎる武将。ただ、正義を信じ、不器用で人間味のある武将。内政に関しては頭の切れる武将であったが、外交、軍事に関してはあまり得意でなかった。  徳川家康の 〔表の顔〕徳川の初代将軍、松平広忠の長子。今川義元、織田信長と結び、つい豊臣秀吉と和し。1590年関八州に封ぜられて、江戸城に入り、秀吉の没後伏見城にあって執政。1600年関ケ原の戦いで石田三成を破り、1603年征夷大将軍に任ぜられ幕府を開いた。(広辞苑) (裏の顔〕野望に燃え、天下どりを目論む武将。狸親父と言われ。若い時は短気だったが年長になるに従って、『鳴くまで待とうホトトギス』といって、忍耐強く待つことに専念した。  小早川秀秋の 〔表の顔〕安土桃山時代の武将。金吾中納言、豊臣秀吉の妻、北政所の兄木下家定の子、秀吉の養子、後に、小早川隆景の養子。慶長の役に総大将。関ケ原の戦いに徳川方に内通、大阪方敗戦の因をなした。 〔裏の顔〕義を貫こうとする武将。    
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