第1章

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 日本語でなんの断りもなく花、と言えば、それは桜を意味する。他の植物に対して随分と不公平な扱いだと思うが、満開をわずかに過ぎたこの桜を見上げると、心情的には納得してしまう。この吸い込まれるような存在感は、花の世界のエースに違いなかった。  風もないのにはらはらと花びらが散る。このまま花見に行ってしまいたくなるような(うら)らかな陽気だ。  いつもはこの三叉路を左に行ってすぐのコーヒーショップに寄って朝食をとるのだが、今朝はぎりぎりまで二度寝していたのでその時間がない。右にハンドルを切って、古いマンションの前でバイクを降りる。 「お、やばい」  ハンドルバーに取り付けたサイクルコンピュータで時間を確認すると、九時三分前だ。オフィスとして借りているそのマンションの一室に駆け込み、廊下のバイクハンガーに自転車を引っかけてヘルメットを脱ぎ、急いで扉を開けた。  デスクの並ぶ室内に、コーヒーの芳香がふわりと漂っている。 「よし、タイムアウト免れた」  壁の時計を見上げて九時ちょうどを確認する。その視界を長身長髪の人影が遮った。  頭上から呆れたような声が降ってくる。 「月曜の朝から社長が何をばたばたしてるんですか、もう」 「槻橋。『社長』はやめろって」  晴行は手をうちわの代わりにして、顔をぱたぱたとあおいだ。  取締役社長なのは事実だが、わずか三名の小所帯でそんな堅苦しい呼び方は勘弁してほしい。かえって子供のままごとみたいだ。     
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