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日本語でなんの断りもなく花、と言えば、それは桜を意味する。他の植物に対して随分と不公平な扱いだと思うが、満開をわずかに過ぎたこの桜を見上げると、心情的には納得してしまう。この吸い込まれるような存在感は、花の世界のエースに違いなかった。
風もないのにはらはらと花びらが散る。このまま花見に行ってしまいたくなるような麗らかな陽気だ。
いつもはこの三叉路を左に行ってすぐのコーヒーショップに寄って朝食をとるのだが、今朝はぎりぎりまで二度寝していたのでその時間がない。右にハンドルを切って、古いマンションの前でバイクを降りる。
「お、やばい」
ハンドルバーに取り付けたサイクルコンピュータで時間を確認すると、九時三分前だ。オフィスとして借りているそのマンションの一室に駆け込み、廊下のバイクハンガーに自転車を引っかけてヘルメットを脱ぎ、急いで扉を開けた。
デスクの並ぶ室内に、コーヒーの芳香がふわりと漂っている。
「よし、タイムアウト免れた」
壁の時計を見上げて九時ちょうどを確認する。その視界を長身長髪の人影が遮った。
頭上から呆れたような声が降ってくる。
「月曜の朝から社長が何をばたばたしてるんですか、もう」
「槻橋。『社長』はやめろって」
晴行は手をうちわの代わりにして、顔をぱたぱたとあおいだ。
取締役社長なのは事実だが、わずか三名の小所帯でそんな堅苦しい呼び方は勘弁してほしい。かえって子供のままごとみたいだ。
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