第五章 軽井沢

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 夕日が遠くの山に落ち、辺りは刻々と宵闇に沈んでいく。 「すみません! 軽井沢に戻るには……」  改札で駅員をつかまえると、ひげの駅員は時計を見て難しい顔をした。 「今日は無理だよ。横川行きの最終がもう出てしまった」 「どうしても戻りたいんです!」 「車で行ってさっきの最終に追いつけば、あるいは横川から碓氷線の最終に……」 「追いかけます!」  駅を飛び出し、いま電車できた線路を見る。 「君? 車じゃなきゃ無理だよ!」  そんなことはわかっている。けれどじっとしてはいられなかった。  隆一は線路に沿って走りだす。  今は何も考えられない、あの人のことしか――…。  線路脇の道を走り、道が途切れたところで雑木林に飛び込んだ。  線路さえ見失わなければ、元来た駅にたどり着く。  この際、到着は今夜でも明日でも、別に構わない気がした。  沈んだ夕日の気配が消え失せ、空には星が輝き始めている。  雑草に足を取られて転び、また起き上がって走った。  息が上がり、だんだんと肺が苦しくなる。  けれども体の熱を発散させるのに、走るのはむしろちょうどいい気がした。  走りながら、夜のひんやりした空気が肺に満ちてくる。  走りすぎて疲労したひざと足首が痛みだし、感覚がなくなった頃――。  頭から悩みやこだわりが吹き飛んで、全身が軽くなった気がした。  ――おれがあなたを欲しい、それ以外は取るに足らない事情です。  夢で口にした恥ずかしい言葉が、妙にしっくりと胸に響く。  そうだ、自分はくだらないことばかりにこだわっていた。  自分がどんな存在だろうと、命ある限り生きていく、それだけだ。  走ることのできる足がある、絵筆を握る腕がある。  それでこの手であの人に触れられるなら――、もうそれでいいじゃないか。  走りながら口元に、自然と笑みが浮かぶ。  そして闇の向こうに、キラキラと光る駅の明かりを見つけた。    もう行ってしまったかと思っていた碓氷線の最終は、車両トラブルでまだ発車していなかった。  隆一は闇の中を行く列車に乗り、峠を登った。
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