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第一章 鎌倉1
大正六年三月十日――。
その日隆一は擦り切れた着物にほとんど手ぶらで、時事日報社のエントランスをくぐった。
有楽町にあるこのビルディングを訪れたのは今回で二度目、十日ぶりのことだ。一階のフロアを見回し受付に進もうとすると、いかつい顔をした男が目の前に立ちふさがる。
「西洋画家の小栗隆一君かな?」
職業とフルネームで呼ばれ、隆一は反射的に背筋を伸ばした。この男は警備員で自分はつまみ出されるのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
次の瞬間には男は破顔し、力強い声で続けた。
「あんたの絵は見せてもらった、とても素晴らしかったよ」
それから風呂敷に包んだ油絵を、無造作に返される。それは隆一が「ひと目でいいから編集者に見てもらいたい」と、ここの受付に預けたものだった。
時事日報社は、東京五大新聞社のひとつである。かの啓蒙思想家・唐沢英吉が立ち上げた新聞社だというが、創業から百年近く経った今も尖った出版物を世に送り出し続けている。
こんなところで働く人間は自分と全く違う人種、要はエリートに違いない。言葉が通じるかすらあやしいと、隆一は思っていた。しかし絵の仕事で糊口をしのぐためには、そんなことにびくついている場合ではなかった。ただ一心、仕事が欲しいという思いで、隆一はこの時事日報社の門を叩いていた。
上京したて、二十二歳の洋画家は、生きるために前へ進むしかない。それで隆一は十日前、迷惑がる受付係に自信作を押しつけ、十日後に取りに来ると言って帰っていた。
しかし本当に見てくれたのだろうか? 隆一は疑いながら、風呂敷の結び目を見る。
風呂敷の結び目ひとつ取っても、隆一は、バランスが取れていないものは好まない。ところがいま結び目は、どう結んだのか妙な具合にねじれていた。
改めて、男の顔を見る。
角張った太い眉に大きな鼻。油分と水分の豊富な肌の感じからして、年は二十代中頃だろうか。ためらいのない瞳が、隆一を見返した。
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