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「遅かったね」
旅館の客室に戻ると、夏目が二人分の夕飯を前に頬杖をついていた。
「なんで二人分……。おれ、帰るっていったじゃないですか」
隆一は呆気に取られ、夕食の膳と夏目を見比べる。
夏目がふうっと息をつく。
「結局、戻ってくる気がしていたんだ」
「結局って……なんか腹立ちますね、その言い方! おれがただその辺でふて腐れているだけだと思っていたんですか?」
「だったら今まで、どうしていたのかい?」
「列車で横川の次の松井田まで行きました、本当に東京へ帰るつもりだったんですから!」
勢いよく言うと、またすぐに言葉を返される。
「でも戻ってきた」
「それはそうですけど……」
本当にこの人は人の気も知らないで……。
走ってきた自分を思うと、隆一はなんだか馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「もういいです、おれはまんまとここへ戻ってきたわけで。とにかく腹が減りました」
目の前には、山の幸を使った懐石料理が並ぶ。汁物はすっかり冷めてしまったようだが、それでも食欲をそそった。
夕食の膳に手を合わせ、箸を取る。
お互いに無言で食べ始めてから、夏目が思い出したように聞いてきた。
「横川の次まで行って、どうして戻ってきたんだい?」
「それは……別にこれといった理由はありません。ただ気が変わった」
皿から目を上げずに答える。
「強いて理由を挙げるとすれば、あなたに会いたくなった、それだけです」
夢を見たあとの激情がふいに戻ってきて、静かに気持ちが昂ぶる。
夏目が箸を止め、息をついた。
「僕も君に会いたかったよ。あの絵を見ながら、君の横顔を思い出していた。そうしたら……ひどく胸が詰まった」
夏目の視線を追うと、畳の上に置いていた絵が机のところへ移動している。
二枚の絵は和紙が挟まれていて、夏目がそれを汚さないよう気をつけて手に取ったらしいことがわかった。
あれはただ描き殴っただけのもので、作品と呼べるような代物ではない。机の上の絵を遠目に見ながら、嬉しいような申し訳ないような気持ちになった。
「やっぱり僕らは、一緒にいるべきなんじゃないかな」
ぽつりと言われ、夏目の顔を見た。
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