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自宅として借りている裏長屋の四畳半に戻り、瀧に渡された雑誌を取りだす。
B5サイズの表紙にきりりとした書体で、『潮流』という雑誌名が記されていた。
独特の手触りの表紙をめくり、目次に並ぶ著者名の中から、瀧の言っていた名前を探す。
「夏目龍之介……これか」
ページを確認して開いた。
隆一にはあまり本を読む習慣がない。読み書きは学校教育でマスターしていたが、当時から好んで本を読むような子供ではなかった。子供の頃からどちらかというと絵を描くことの方が好きで、人に借りた雑誌の挿絵を写したりしていた。本は簡単に手に入らなくても、絵なら何にでも描ける。障子紙にでも新聞紙にでも、それこそ土の上にだって。
しかし目の前の『潮流』は、挿絵のある雑誌ではなかった。ただ活字がぎっしりと並んでいる。初めは文字に指を添え、たどたどしく読んでいく。けれどもすぐに活字が頭の中で、ここにない景色を形づくり始めた。
始めに読んだのは、平安時代の冴えない侍を主人公にした物語。その時代のことはよく知らないのに、独特の空気の匂いを嗅ぎ取った気がした。それから次は頭の長い和尚の話。和尚のコンプレックスに共感して、最後にはほっと気持ちが軽くなった。
夏目の作品は読みやすく明快で、ある種のおかしみを持っている。そしてその物語の向こうに、豊かな世界の広がりを感じさせた。
鮮やかな色彩と、緻密で正確な描写。画角は小さいのに、絵には驚くほどの奥行きがある。夏目の作品を絵画に例えるなら、そういった印象だ。
隆一は畏怖の念を覚えながら、短い作品を二度三度と読み返す。
「夏目龍之介……」
見出しのページを見返し、彼の名前をもう一度口にしてみた。
その名前は、強いきらめきをもって胸に響く。
この人に認められれば、自分も東京の出版界で生きるための扉が開けるかもしれない。なんの足がかりもなく上京してきた隆一にとって、夏目はいま唯一、光の届く空の星だった。
「どんな人だろう?」
星に手を伸ばそうとして、彼のことを何も知らないことに気づく。借りてきた何冊かの雑誌を見返しても、その風貌はおろか年齢も出身地もわからなかった。
ただ、とても聡明できちんとした人に違いない。作品はその人の心を表す。心に触れて、この人なら何かを変えてくれる、そんな期待を抱いた。
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