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翌朝、時事日報社のエントランスをくぐると、そのまま有楽町駅へ連れ出された。
瀧曰く、夏目の住まいは鎌倉の方らしい。そこへ行くには有楽町駅から東海道本線に乗り、南へ下る。
足を踏み入れた有楽町駅の駅舎はまだ新しい。鉄道院東海道本線の駅としてここが開業したのは、今から七年前だそうだ。
階段を上り駅のホームに立つと、高架になっているホームから朝の東京の街が見渡せた。景色を眺める頬に、正面から風が吹き付ける。
三月上旬。ホームに吹く風には冬の気配が残るのに、列車を待つ人々の列は明るい活気に満ちていた。
瀧と隆一はその後ろに並び、東京駅から来た列車に乗り込む。
観劇にでも行くのか着飾った女たちの脇を通り、学生帽の青年たちの横に空いた席を見つけた。座りながら後ろへ目をやると、下働き風の娘が大きな荷物を下ろし輝く瞳で本を開いている。誰もが当たり前のようにそこにいて、席に座っていた。
その様子を見て、隆一は新鮮な感動を覚える。
今は大正六年。文明開化の明治時代が過ぎ、民主主義、自由主義の時代だ。
貧しくても頭のいい子供は学問で身を立てられるし、体が丈夫であれば軍人として成り上がることもできる。女に生まれても女学校で教育を受ける道があり、実際に巷では女流作家、女流詩人たちの活躍がめざましい。また上を見れば帝国議会は平民出身の議員たちで埋め尽くされ、次の首相は平民出身者がなるのではないかと言われている。
身分制度は、急速に過去のものになりつつあった。
時代は変わりつつある。ここ東京では、それを肌で感じることができた。
ここでなら自分も胸を張って生きていける、そんな思いが隆一を勇気づける。
「読んできたかな? 夏目の作品を」
揺れ始めた電車内で腰を落ち着け、瀧が早速聞いてくる。
「はい、お借りしたものは一通り」
隆一はしっかりと頷いてみせた。
「それで、どう思う?」
「素晴らしいと思います。文章に洗練された輝きを感じました。おれなんかがあれこれ言うのはおこがましいですが……」
瀧は満足そうに頷く。
「その通り、書くものは一流だ。一字一句にこだわり抜いている。だから難しい」
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