第八章 人面獣心

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第八章 人面獣心

 袖山明誠は、物心付いた時から、その才能を自覚していた。  その才能とは、これまで、見た物、聞いた物、臭い、触感、味わった物、その全てを瞬時に記憶し、『再生』出来るというものだった。  見た物や聞いた物はビデオテープのように、それ以外は、追体験として、再度、感じ取ることが可能だった。そして、一度記憶すると、二度と忘れることはない。  特徴的なのが、それらを別領域へと『保存』出来る点だった。外付けハードディスクに保存するように、脳の通常の記憶領域とは違う部分へと蓄え、好きな時に取り出すことが可能だった。それにより、『忘れない』ことに関して、精神が苛まれることはなかった。  現在、袖山は、複数の消費者金融会社を経営していた。しかし、これらの設立から運営、発展に際し、才能に頼りきった経営はしていなかった。唯一、『CRIN(情報共有ネットワーク)(クリン)』の情報を丸々頭に入れることが出来るメリットはあったが、与信の情報など、文章で事足りるため、さほど優位ではなかった。  袖山は、ここまで会社を成長できたのは、自身の手腕のためだと自負している。雨宮が経営する銀行との提携による保証業務や、メガバンクの資本参加等のお陰で、さらに急進し、スケールメリットの拡大による利益は、莫大であった。  袖山は思う。ここまで自分が登り詰めたのは、分析力と、洞察力があった賜物だと。アメリカの銀行家、ロバート・ルービンも言っていたではないか。意思決定においては、分析と注意に勝るものはないのだと。    袖山は、夕方、木更津の清見台にある駐車場へ、マスタングコンパーチブルを停車させた。5LのV8DOHCエンジンが、細かく唸るような音と共に、静かになる。  袖山は、車を降り、市道へと出る。御神の情報が正確ならば、そろそろ来るはずだ。  袖山の目線の先に、銀髪の少年が現れた。友達らしき地味な男子生徒と、三つ編みの女子小学生も一緒にいる。幸い、今日はマスコミの姿は見当たらないようだ。  『DC会議』の連中には悪いが、一足先に手を出させてもらう。  袖山は、こちらへ向かって来るその三人へと近付いた。  そして、すれ違う。  袖山がやったのは、それだけだった。    夜、必要な業務を終え、袖山は、東京の目黒にある、自身のマンションへと帰ってきていた。  もう既に外で食事を済ませていたので、シャワーを浴びる。浴室から出て、バスローブを身に付けたまま、コンポにCDを入れた。  BOSEの円筒型スピーカーから、グリーグの『ホルベアの時代から』が流れる。  弦楽合奏版であるため、グリーグにしては派手で、複雑な音響効果がある。袖山は、バロック調を踏襲しつつ、暗めの第四曲が気に入っていた。  袖山は、音楽を聴きながら、ロッキングチェアへと座る。そして、脳内のアーカイブスを検索し、今日の夕方、記憶した銀髪の異世界人のデータを引っ張り出す。  再生。西日が差す歩道を、正面から、三人の人物が歩いてくる。二人は扶桑高校の制服を着た少年達だ。銀色の髪をした、色白の美しい少年と、どこにでもいるような男子学生。銀髪が例の吸血鬼だ。  残る一人は、JENNIの服を来た小学生の女の子だ。低学年くらいか。おそらく、地味な少年の妹だろう。  女の子は、銀髪の吸血鬼がお気に入りなようで、熱心に話しかけている。吸血鬼の方は、ホストのように、女の子に上手く合わせている。  おや。待てよ。  停止。そして、ピックアップ。吸血鬼の体に注目する。  吸血鬼は、どこか、右半身を庇うような歩き方をしていた。右半身をどこかにぶつけでもしたのか、ちょっと前まで、痛みを負っていたような様子だ。  これはもちろん、常人の人間では気付かないほどの、些細な特徴を拾ったものだ。袖山が金融世界という、魑魅魍魎が跋扈する中で、戦い続けたからこそ、育まれた能力だ。  袖山はさらに分析を続ける。  隣の地味なガキ。こいつも少しだけ、体調が悪そうだ。貧血でもかかったのか、僅かばかり、重そうに体を動かしている。  ん? これはどういうことだ?  袖山は、三つ編みの女の子に着目した。  この子は、何か大きな隠し事をしているようだ。隣にいる兄にも話していないことがわかる。ほんの微かに、距離を置く無意識の動きが、動作に入り混じっている。  万引きでもして、隠してでもいるのだろうか。  この付近で小学校と言えば、春日小学校だが……。  袖山は、脳内のアーカイブスを駆使し、春日小学校の情報をピックアップした。どこかに、付け入る材料があるはずだ。  そして、見つける。  おあつらえ向きじゃないか。運がいい。  袖山は、邪な笑みを浮かべた。  翌日、袖山は目黒にある、自身の金融会社のオフィスビル内にて、一人の男と会っていた。  『会っていた』とは聞こえがいいが、実際のところ『呼び出した』のである。しかも、平日の昼間にもかかわらず、突然の召集である。  呼び出された男は、言い付けを守り、下僕のごとく、いち早くやってきた。そして、十階にある個室にて、対面しているのだ。  現在、二人がいる部屋は、袖山が来訪者と面会する部屋だった。壁は白を基準としたベーシックなモルタル製の作りで、部屋の中央には、革張りのソファが向かい合わせに置かれてある。間にはオーク材の重厚な木製テーブルが設置されてあった。テーブルの上には、借用書を始めとする書類の束。  他に目新しいものが見当たらないのは、安全面を考慮してのことだ。この部屋で対面するのは、大抵が債権者。いわば、社会の負け犬だ。搾取対象である連中は、自分の金銭管理のなさを棚に上げ、時折暴れたりする。  もしもその時に、ガラス製の灰皿や、フロアライトなどがあれば、充分凶器になりうるのだ。  自分の腕前なら、それでも簡単に制圧できるが、暴力沙汰は得するものがないのが現実である。極力、警察と関るリスクは避けたい。  袖山は、革張りのソファに座ったまま、正面にいる禿頭の男をじろりと睨んだ。男の服装はワイシャツにスラックスという出で立ちであり、仕事を早退し、半場無理矢理この場へと馳せ参じたことを示していた。  目の前の男は、怯えたように顔を伏せた。禿頭が天井から照らされたシーリングライトの光を受け、ぬめりと光る。緊張のあまり、汗をかいているようだ。これ以上、髪が抜け落ちないか、心配になる。  「遠月(とおつき)さん、どうして呼び出されたかわかりますか?」  袖山は、遠月安信(やすのぶ)に対し、質問する。静かな声だが、奥底に毒針のような棘を宿すのを忘れない。人の耳は、わずかなニュアンスでも感じ取れるほど感受性は高いのだ。充分、『脅し』として伝わるだろう。  遠月は、弾かれたように顔を上げた。袖山の目論見どおり、遠月は戦々恐々としており、悲痛な表情に顔を歪めた。  「あ、あの、返済期日はまだ先では……」  遠月の言葉に対し、袖山は恫喝を行う。  「それは、こちらが温情をかけて、結延長申請やった結果だろうが。本来なら、お前の職場に押しかけてもよかったんだぞ」  『職場』という単語が出て、遠月は心底怯えた様子をみせた。  この男が、ギャンブル中毒者で、負けが嵩み、サラ金に手を出したのが運のつきだった。  先ほどの怯えは、遠月がしがない小学校教職員の身分であることを暗に物語っている反応だ。借金、ましてや、ギャンブルでこさえた負債など、学校側に発覚したら、懲戒ものだろう。  いくら安月給だろうと、借金で首が回らない現状、働き口を失うわけにはいかないのだ。生活すら困窮するのは必至だろう。  おまけに、五十代という年齢なため、再就職も困難を極める。最初から、遠月の生殺与奪の権は、こちらにあるのだ。  アメリカ独立の立役者、ベンジャミン・フランクリンの『借金というものは、人を束縛し、債権者に対して一種の奴隷にしてしまうものである』という格言を体現したような人間だった。もっとも、そのような人種は掃いて捨てるほど存在するが。  「なあ、おっさん、そこんとこ、どう思ってんの? 借金を重ねた挙句、返済期日まで延長してさ。感謝とかないわけか?」  実際のところ、彼に対して行われたリシュケジュールは、こちらのマネタイズの都合によるものだった。よって、決して温情をかけた結果ではなかった。  しかし、こいつはもちろん、事実など知らず、鵜呑みにする。  「も、申し訳ありません。本当に感謝しております」  遠月は、頭を下げたあと、額に滲んだ汗をハンカチで拭う。磨かれた電球みたいだと、袖山は笑いそうになるのを堪えた。  「で、それをどう証明すんの? 言葉だけか? 落とし前付けろよ」  袖山は、ソファから身を乗り出し、下から覗き込むようにして遠月を睨んだ。  「そう言われましても……」  遠月はガタガタと震え出す。見ていて滑稽なほど、慄いていた。本当に恐怖しているらしい。  そこで、袖山は打って変わって、穏やかな口調になる。  「だが、俺はお前をそう簡単に地獄へ突き落とすほど鬼じゃない」  温情をかけてもらえると思ったのか、目の前のギャンブル中毒者は、希望を持ったように一瞬だけ目を輝かせた。  しかし、その目はすぐに曇る結果となる。袖山が畳みかけたからだ。  「お前に頼みがある」  遠月は、ひどく残念そうな顔をみせた。これ以上、何を奪うのか。やつれたような相貌からは、その感情が読み取れた。  「頼みとは」  「お前のクラスに篠崎春香っていうガキがいるよな?」  遠月はなんでそこまで、という表情を浮かべた。  袖山の脳内にあるアーカイブを元に、導き出した奇貨である。『DC会議』で議題に上がった男子生徒の妹に当たる少女。そいつの担任が、偶然にも、袖山の会社の負債者だったのだ。  驚愕している遠月に対し、袖山は述べる。  「そのガキを追いつめてくれ」  遠月は一瞬だけ、ぽかんとした顔になった。だが、すぐに怪訝な面持ちに変化する。  「追いつめるとは、一体……」  「方法は任せる。だが、自殺寸前までやってくれ」  遠月は、躊躇う様子を示した。平気で借金を重ねるクズだが、受け持ちのクラスの生徒には、少なからず愛情は覚えているらしい。  さらに袖山は畳みかける。  「上手く行ったら、お前の借金は帳消しにしてやるよ。会社の債権リストを消すんじゃなく、俺がポケットマネーで賄ってやる」  負債者にとっては、願ってもいない垂涎の提案。遅行毒のように、遠月の体を駆け巡る。  逡巡したものの、やがて篠崎春香の担任教師は、おずおずと頷いた。さらに汗をかいた禿頭が、明かりを受けて鈍く輝く。  とうとう袖山は、我慢できずに、笑い出してしまった。   妹の様子がおかしいと直斗が気が付いたのは、つい最近のことだ。  扶桑高校襲撃事件から、ちょうど十日ほどが経過した頃。自分もルカも体調が万全になり、ルカへの注目も減り、日常が戻った思った矢先だ。  今度は、妹の春香に異変が生じていた。  端的に言えば、とても暗くなったように感じたのだ。これまでは、恥ずかしがり屋で、人見知りなところはあったが、決して暗い性格の子ではなかった。  しかし、先日までと比べて、どこか塞ぎこんだような様子をみせていた。もしかすると、直斗の勘違いかもしれないが、今まで妹のそんな姿は見たことがなかった。  両親は気付いていないらしく、普段どおりに接していた。だが、一番身近にいると言っても過言ではない兄の直斗は、違和感を覚えていた。  それとなく、直斗は、春香に尋ねてみたことがある。しかし、彼女は「なんでもない」との一点張りで、話すようなことはなかった。  気のせいかと思い始めた矢先、決定的なことが起こる。夜、寝る頃になって、妹の部屋の前を通ると、中から声が聞こえたのだ。  泣き声である。すすり泣くような、悲しみに包まれた嗚咽。  直斗は、思わず、ドアノブに手を掛け、扉を開こうとする。だが、寸前のところで、思いとどまった。もしも、今の姿を見られたら、妹はひどく傷付くかもしれない。あれだけ隠そうとしていたのだから。  妹の部屋の前から退散し、自室へと戻る。ベッドに座り、悩んだ。  無理に問い質す真似は悪手だろう。かといって、部屋や荷物を探るといった、家捜しのような行為はしたくない。  どうしようか考えた挙句、直斗は誰かに相談してみることにした。  「それは多分、学校でとてもよくない何かがあったと思うわ」  翌日のことだ。登校を終えた直斗は、すでに教室にいた神崎志保に相談をしてみた。  志保には確か、小学生の弟がいたはず。何か、参考になる話が聞けるかもしれないと考えた末のことだ。  「俺もそう思う。けど、妹は話したがらないんだ」  直斗は、妹の直近の姿を思い出した。自分の様子がおかしいことを、家族――特に父と母――に悟られるのを避けていた節がある。  「妹さんの友達とかは事情を知らないの?」  志保が、健康的なショートカットの髪をかき上げながら訊く。  「うーん」  以前、何度か春香の友達と登校したことがあった。そのため、若干ながら面識はある。とはいえ、ろくに名前も知らず、もちろん連絡先も住所も把握していない。  事情を聞く相手としては、難しいように感じた。それに、思えば、最近その子も見ていない気がする。  「妹の交友関係はそこまで詳しくないんだ」  直斗が、説明すると、納得したように志保は首肯した。  「普通そうだよね。私も弟の友達とかあまり知らないし」  でも、と志保は続ける。  「その友達と何度か登校したことあるんでしょ? いざとなったら、通学路で待って、やってきたところで話を訊くとかはどう?」  女子小学生を待ち伏せする男子高校生。構図を想像するだけで、すこぶる怪しい。  「いや、やっぱり無理だよ」  直斗はひらひらと手を振った。話を聞く前に、警察と話をするはめになりそうだ。しかし、それでも志保の提案は頭に留めておこうと思った。  やがて、俊一や裕也も登校してきて、相談は終わりを迎えた。  志保に相談を持ちかけた日から、二日ほどが経過した。  直斗は、妹の様子がさらに悪化してきていることを実感していた。  妹はそれでもなお、家族の誰にも悟られないよう、無理して振舞っているようだった。しかし、直斗には筒抜けだった。  妹の心が、より暗闇に接近したことを顕著に表わしているのが、彼女の食欲だった。  春香は元々大食いではなく、むしろ小食の部類である。しかし、以前よりも食べる量が大幅に減り、今では食事を度々残すようになった。  さすがに母の蛍子も違和感を覚えたらしく、妹にどうしたのかという質問を投げかけていた。だが、春香は曖昧な返事でお茶を濁し、正直に話してはくれなかった。  直斗は思い悩む。打つ手は限られていた。もしもこれが怪我などの症状ならば、自身の『血の力』を使って、修復はできたかもしれないが、問題は心にあると思われた。  そればかりは、直斗にもどうしようもなかった。  とはいえ、自分は一番身近な存在である『兄』なのだ。妹に降りかかっているであろう問題を解決するには、最も適任の位置にいた。  直斗は熟考した上、以前相談した志保の意見を取り入れることにした。  学校が終わり、放課後を迎えると、直斗はすぐに教室をあとにした。下駄箱に到着した時には、すでにルカが待ち構えおり、共に帰宅する要望を求めてくる。  扶桑高校襲撃事件を期に、話題の人となったルカだが、世間のコンテンツ消費力は時代が進む事に早く流れる性質らしく、今はずいぶんと時間に余裕ができたようだ。原点回帰したかのごとく、よく誘ってくるようになった。  先を急ぐ直斗は、ルカの要望を丁寧に固辞し、高校を出る。  今回、プライベートの問題なので、あまり他者は介入させたくない。特に、ルカは妹のお気に入りであるため、なおさらセンシティブな部分に触れさせるべきではないだろう。  寂しそうに俯くルカをその場に残し、直斗は下駄箱を出て、学校をあとにした。  そして、そのまま通学路を通って、目当ての場所へ向かう。  十分ほどが経ち、直斗は目的の場所へとたどり着いた。通学路途中の、何でもない場所だ。清見台地区の交差点。通行人も普通に歩いている路傍だ。  ここは春香と春香の友達と一緒に登校した際、分かれる地点だった。この交差点を扶桑高校とは反対の道を行くと、妹が通う春日小学校へ到着する。  直斗は、極力怪しまれないような位置に陣取り、歩道の様子を伺った。小学校が近いせいか、ランドセルを背負った子供たちが歩いている姿が散見される。不審人物に見られなければいいが……。  職質と通報の恐怖に怯えながら、張り込みの刑事のように、通行人に目を光らせる。対象の人物だけではなく、春香本人にも警戒しなければならない。妹に張り込みの姿を目撃されたら、言い訳が難しくなる。  結構時間が経った。あまりにこないので、もうすでに通過したあとだと直斗が思い始めた頃。該当者が影のように現れた。  一人だ。バイラビットのトレーナーにチェックの切り替えスカートを履いた女の子。間違いなく、春香の友達の子だ。  直斗は、ゆっくりと歩き出し、その女の子へと近づいた。どこからどう見ても不審者だが、幸い、こちらに注目している者はいなかった。  直斗は少女の魔の前までいく。  「こんにちわ。今帰り?」  直斗は手を上げ、気さくな態度で声をかける。可能な限り、フレンドリーに振舞ったほうが怪しまれないだろうと判断した末のことだ。  女の子はぴたりと立ち止まり、不思議そうな顔でこちらを見上げる。  直斗は続ける。  「覚えていないかな? 俺のこと。春香のお兄ちゃんの直斗だよ」  春香、という単語が飛び出した瞬間、目の前の女の子は表情を変えた。  「あ、春香ちゃんの……」  どうやら、顔は覚えてもらっていたらしい。不審者扱いされなくて済んだようだ。  直斗はすぐに本題へと入る。  「あの、春香のことで話を聞きたいんだけど……」  直斗の目的を知った女の子は、表情を曇らせた。嫌な雰囲気を感じる。良くない話の顛末が待っていると、直感が告げてきていた。  女の子は、悲痛に表情を歪め、請うように言う。  「お兄さん、春香ちゃんを助けてあげて」  直斗は、自身の予感が当たったことを確信した。  そのあと二人は、近くの公園まで歩いた。  公園のベンチに着き、途中の自販機で買ったジュースを女の子に渡す。  受け取ったジュースを飲みながら、春香の友達は、自身の名前を苅田理衣(かりた りい)と紹介した。  直斗は、理衣に尋ねる。  「さっき、春香を助けてって言ってたけど、何があったの?」  嫌な予感は今も続いている。なんだか、少しずつ、暗く沈んだ森の中に分け入っている気分に陥った。  理衣は、缶ジュースを両手で覆うようにして持つと、ぽつぽつと語り始める。  「春香ちゃん、クラスでいじめにあってるんです」  やっぱり、という思いが胸中に去来した。そのような理由でなければ、人は急に暗くなったりはしない。  「いじめって、どんな内容なの?」  直斗は質問する。あまり聞きたくはないが、妹の現状を把握するため、必要なメソッドだ。  理衣は、しばらく悩む仕草をする。口にし辛いのか、もじもじとバイラビットのスカートを弄っていた。前はJENNI系を着ていたと思うが、趣旨が変わったらしい。両方ともカジュアルブランドだが、おそらく、妹との関係性の変化が、そのまま服装の好みに反映されたのだと思われた。  「そんなに言いに難いこと?」  不安に包まれる。よほどひどい目にあっているのだろうか。  すると、理衣は首を振った。  「いえ、違うんです。ただ、かんこうれい? みたいなものが敷かれていて、本当はあまりいじめのことは人に話しては駄目なんです」  どういうことなのだろうか。かんこうれいとは、緘口令のことらしいが、なぜそのような状況になっているのか。  直斗が怪訝に思ったところで、理衣は言う。  「いじめの内容は、無視だとか、机に落書きされるとか、そういったものです」  「身体的ないじめはないの? 暴力とか」  理衣は首を振った。  「暴力はないと思います。私が知る限り」  妹の姿を思い起こしても、確かに暴力を受けた痕跡はなさそうだった。その点は安心してもいいと思う。  「でも、なぜいじめが始まったの? 春香はいじめられる人間には見えないけど」  「私もそう思います。その、きっかけがあったんです」  「きっかけ?」  「はい。給食の徴収金を春香ちゃんが盗んだっていう状況になって」  直斗は絶句した。徴収金を春香が窃盗? そんな馬鹿な、と思う。春香は窃盗やら暴力とは一番縁遠い女の子だぞ。  「そんなの、何かの間違いだよ」  直斗は強めの口調で言った。本当に信じられなかった。  理衣は、怯んだようにスカートの裾を握り締める。驚かせてしまったようだ。  「ごめん」  直斗が誤ると、理衣はすぐに元の表情に戻った。  彼女は説明を続ける。  「その、給食のお金が入った封筒が教室からなくなって、それから次の日、お金が入ってたはずの封筒が、春香ちゃんの鞄から発見されたんです」  「中身は?」  「なくなってました」  「それで春香が盗んだって結論になったのか」  理衣は、こくんと頷くと、缶ジュースを傾けて、一口飲んだ。  「それから、ちょっと問題になって……。春香ちゃんは泣きながら否定したんだけど、先生が認めてくれなくて」  「先生って、担任の?」  「はい。遠月安信(とおつき やすのぶ)って名前の先生です」  名前から察するに、男の教師なのだろうが一体、どんな奴だ? 春香を犯人扱いしやがって。  「どんな先生?」  「ちょっと気が弱そうな、髪の毛の薄い先生です」  そんな奴に、春香が苦しめられるとは。  とはいえ、いくつも疑問がある。  直斗は聞いた。  「どうして、先生やクラスの皆以外は知らないの?」  「それが、さっき言った誰にも言ってはいけないルールができたからです」  緘口令は、そのために敷かれたらしい。  理衣は続けた。  「もしも、親とか他のクラスの人に知られたら、春香ちゃんが困るからって先生が説明してました」  「お金はどうなったの? 見つかってないんでしょ?」  「先生が肩代わりしたみたいです」  理衣の話を聞いてみて、ようやく経緯が判明してきた。  事の発端は、徴収した給食費の消失。その時は騒ぎになったものの、結局見つからず、保留となる。  しかし、問題なのが、次の日、その給食費が入った袋が、妹の春香のランドセルの中から見つかったことだ。  中身は消えており、妹が窃盗の犯人だと疑われた。妹は否定したが、状況が状況なだけに、聞き入れてもらえず、犯人に確定されてしまう。  担任の遠月安信教諭が、なくなった給食費を肩代わりし、問題を大きくしないために緘口令を敷く。  同時に、妹へのいじめが始まった。相手は皆の大切な給食費を盗んだ窃盗犯。無視や、机の落書きなど嫌がらせが行われる。  突如、迫害を受けるようになった春香は、次第に暗くなり、やがて兄の知る由となる。  といったところか。  なんだか、所々、妙な点が見受けられる。不可解なのだ。経緯が。  ともかく、優先するべきは、二つ。妹に真意を聞くことと、担任教師である遠月安信から事情を聞くことである。  「ありがとう」  直斗は礼を言うと、立ち上がった。  その日、家に帰ると、直斗は妹の部屋を訪ねた。そして、実情を知った旨を伝え、改めて質問をした。  妹は、当初、躊躇う仕草をしたが、やがて堰を切ったように泣き出し、しゃっくりと共に話を始めた。  内容は理衣から聞いたものとほとんど同じだったが、一つだけ確かな言質を取ることができた。  盗んでいない――。妹ははっきりとそう断言した。  当然だ。妹はそんな人間ではない。俺は妹を信じている。  直斗は泣きじゃくる妹を抱き締めながら、次の行動を頭の中で計画した。  次は春香のクラスの担任教諭である遠月安信から話を聞こう。その人物が色々発端である気がする。少なくとも、春香の誤解だけは解かなければならない。  妹を抱き締めたまま、直斗は決意した。
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