第六章 襲撃

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第六章 襲撃

 日曜の夜、御神龍司は、富士見にある自宅の浴室で、シャワーを浴びていた。  浴室灯の明かりにより、淡いオレンジ色に染まったシャワーの湯が、御神の引き締まった肉体を伝い、大理石の上を流れていく。  御神は、深く息を漏らす。そこには、憂いを帯びた気持ちが込められていた。  御神は先ほどまで、保護者会で説明を行っていた。その前は、木更津署へ赴いていた。  その両方共、レイラ・ソル・アイルパーチの件についてであった。金曜の夜を境に、音信不通になったと、レイラの寄宿先の人間から連絡が入った。  丸二日経ってもレイラは帰って来ず、スマートフォンもまるで応答がなかったため、木更津署に捜索願いを提出したのだ。  その後、緊急の保護者会が開かれ、御神自ら説明を行った。それは、レイラの件のみならず、大田山で起こった、正体不明の破壊の件も含まれていた。  大田山の件は、現在、県警による閉鎖と調査が行われているため、通学には不向きの地帯となっていた。そこで、本来の通学路を変更し、大田山を迂回するルートを取ることを対応策とした。  問題はレイラの件であった。留学生が行方不明というのは大問題だ。しかも、異世界からの留学という、反対もあった中でのやや強引な施策だったため、鬼の首を取ったかのようにわめき散らす保護者もいた。  ――醜い豚め。  御神は、唾を飛ばしながら、自身を糾弾した保護者の姿を思い出した。アル・カポネを想起させる風貌をした、薄汚いチンピラのような男だ。以前から、御神に嫉妬から来る敵意のようなものを持っており、今回の件は、見事に、御神を責め立てる大義名分を与える形となっていた。  確か、その子供も、同じように醜く太った外見をしていたと思う。アル・カポネの息子、アルバート・フランシス・カポネは、病弱で大人しかったようだが、こっちの息子は、問題児だと聞く。蛙の子はやはり。蛙なのだ。いや、汚らわしい豚の息子か。  御神は、大理石の壁に埋め込まれた鏡を覗き込んだ。  そこに、幾度となく大勢の人間に賞賛された顔があった。高い鼻と、凛々しさを感じさせる目尻が長く切れた目。シャープな輪郭を持つ容貌は、常に女達から熱い視線を投げかけられた。いつの時の女か忘れたが、ハリウッド俳優のオーランド・ブルームに似ていると言われたことがある。  その白人めいた顔付きが、今は、やや曇っていた。  一体、レイラに何があったのだろうか。  御神は、初めて会った時の、レイラの慎ましい態度を思い出した。  それが、彼女の本当の姿でないことは、一目で見抜いた。しかし、それでも、大きな問題を起こすようには決して思えなかった。これまで自分は、多くの人間を篭絡してきたのだ。その目に狂いはない。  ネックがあるとすれば吸血鬼だという点だが、代用の血は所持しており、人間の血を狙わないと誓った言葉に嘘は感じられなかった。何か、それらを凌駕する大きな歪が御神のあずかり知らぬ所で、病巣のように広がっていたのかもしれない。  御神は、ふと思い出した。  そう言えば、レイラと付き合い始めた男子生徒がいたはずだ。噂で御神の耳に入っていた。レイラは、御神の目から見ても、ラファエロのような美貌を持つ、絶世の美少女に映っている。そのような少女が選んだ相手が、どんな男子生徒か気になって、調べたことがあった。  確か篠崎直斗という名前の男子生徒だ。何の特徴もない、地味なガキだ。  どうしてそのような男をあのレイラが、と首を捻った記憶がある。  御神はシャワーを止めた。そして、浴室を出る。バスタオルで体を拭きながら、脱衣所にある姿見に、自身の体を映す。週に三回、高級スポーツジムで汗を流しているお陰で、御神の肉体は、男性モデルのように均整の取れた肉付きをしていた。  明日から出張が入っているため、すぐに動けない。出張から帰り次第、その男子生徒に話を聞く必要があった。これは、自身の進退に影響するのだ。自分の目を持って、事実を見極めよう。  嘘は通用させない。  御神はそう決心した。  休日が明け、期末試験が始まった。生憎の雨だが、生徒達がどこか試験に身が入っていない雰囲気であるのは、雨のせいだけではなかった。  金曜に発生した大田山の怪事件、留学してきたばかりの異世界の美少女が行方不明である件。それらが重なり、生徒達の思考を掠め取っているのだ。  直斗も例外ではなく、寧ろ当事者であり、事実を知っているが故の精神的不安は大きかった。  レイラが行方不明になった報を受け、他生徒達は、まっさきに直斗へと事情を聞きに来た。だが、当然、真実を話すわけにはいかない。試験勉強と平行して考えた『ブラフ』を用いて、何とか取り繕い、納得をさせることに成功した。  中には、直斗が殺害したのではと、物騒な疑いをかける者もいたが、よくよく考えると、相手は人間の力を遥かに凌駕した異世界人なのだ。直斗のような『普通の人間』では如何様にも出来ないだろう、という結論に達し、疑いは晴れた。  また、幸いなことに、レイラを冷たくあしらっていた件からの直斗に対する風当たりの強さは、レイラが行方不明になったことのインパクトに打ち消される形となり、人間関係は解消されていた。  しかし、生徒関係はそれでいいとして、これから先、面倒事が起きそうな因子を孕んでいた。レイラのスマートフォンは、ルカが処分したようだが、通信会社の方に履歴は存在している。ゆくゆくは、警察の捜査の手がこちらに伸びてもおかしくない。その辺りも、ルカがどうにかすると言っていたが、信じていいものなのか。  様々な懸念が直斗を圧殺し、ストレスとなっていた。  それは試験結果に如実に現れていた。三日に及ぶ試験はとても満足できる手応えはなく、まるで自分ではない第三者が、直斗の体を乗っ取ったかのような錯覚さえ覚えた。  裕也や俊一に結果を聞くも、いずれも自信のない言葉を吐く。しかし、直斗ほど心に負荷が掛かっているわけではないだろうから、三味線の可能性がある。とは言え、裕也は、事実のはずなので、そうなると、今回に限っては、裕也といい勝負になるまで、点数が落ちているかもしれない。  何はともあれ、期末試験は終わった。後は夏休みを待つのみだ。もう、気にしていられないし、試験よりも警戒するべき事案が増えていた。  その一つが、もうそろそろやって来る。  就業のチャイムが鳴り響き、三々五々、生徒達が教室を出て行く中、それは直斗のクラスへと入って来る。  ルカだった。  休み明けからルカは、よく直斗のクラスへと訪れるようになっていた。まるでレイラがそうしていたように。  ルカにも取り巻きがいるが、説得し、単独で会いに来ているらしい。そうまでして、ルカは直斗と逢引を望んでいるのだ。その理由もおよそ、わかっている。  「直斗さん、帰る準備は済みましたか?」  まるで一緒に帰宅する約束でもしていたかのように、ルカは訊く。もちろん、約束などしておらず、ルカの一方的な押しかけだった。  「出来ているけど、一緒には帰らないぞ」  「まあ、そう言わずに」  ルカは、直斗の意見など気にすることなく、随伴するつもりだ。  「ルカ君、いらっしゃーい!」  ルカに対し、明るく声をかけたのは、志保だった。志保はルカに『お熱』なので、ルカが二年三組へ通って来ることを、強く歓迎していた。  「直ちんが一緒に帰らないなら、私が帰ってあげるよ!」  「志保は、部活あるだろ。サボるのか?」  期末試験が終わり、今日から部活動が再開されていた。  「うん」  志保はあっさり肯定する。  「そこまで一緒に帰りたいのか。今まで休んだことないのが自慢だったよな?」  志保はにやりと笑い、ルカにしがみ付く。女子だから許されるセクハラ行為だ。  「扶桑高校、美男子部門ダントツ一位のルカ君と帰ることが出来るなら、皆勤賞なんてポイッだよ」  志保は物を放り投げる仕草をし、再びルカの腕に自身の腕を絡める。  ルカはそういった扱いに慣れているのか、少しも動じず、直斗を見て優しく微笑んだ。  中性的で整った顔から作られる笑顔は、ミケランジェロの石像のように美しかった。直斗は思わず目線を逸らす。  「それにしても、どうしてルカ君は、直ちんにここまで懐いたの?」  志保は当然の質問を直接ルカ本人へ行う。  直斗はまさか、事実を言わないだろうなと思いながら、ルカの返答を待った。  「惹かれるものがあったからです。素敵な人じゃないですか」  ルカのまるで愛の告白のような台詞に、志保は口に手を当て、目を丸くした。  「ええ!? それって恋しているってこと?」  「そうとも言えます」  ルカは躊躇うことなく、首肯した。  すると、志保よりも先に、周囲から驚きの声が上がった。三人のやり取りを、他のクラスメイト達が聞いていたのだ。クラスメイト達は、学校一の美少年のことが、気になってしょうがないらしく、聞き耳を立てていたのだ。  気付くと、裕也や俊一達も、少し離れた位置から、他の男子に混ざって、こちらを眺めている。部活があるはずなのだが、野次馬を優先したようだ。  しかし、目を輝かせている女子達とは違い、男子達は、どこか嫉妬が入り込んだ視線をルカに向けていた。木場は、レイラの時と同様、曇った表情をしている。  「まさか男の子のルカ君が、これまた男である直ちんを好きだとは」  志保は不思議そうに首を捻った。そして、続けた。  「レイラさんの時もだけど、直ちんには、どこか異世界人を惹き付ける魅力があるのかな?」  志保の疑問は、直斗に向かって放たれた。直斗は首を振る。  「わからないよ」  レイラの時もそうだったが、あまり突っ込まれたくない部分だった。  そして直斗は、ルカの腕を引いて、歩き出した。  「帰るぞ」  これ以上ここにいたら、どんどん誤解が広がってしまう。ルカは直斗の味方だと言っていたが、思惑があり、油断は出来ない。  ルカを連れて歩き出した直斗達へ、志保が不満気な声をかける。  「待ってよ。まだ聞きたいことあるのに」  直斗はそれを無視し、ルカの腕を引いたまま、教室の出口に向かう。そして、クラスメイト達全員が目を向ける中、直斗は教室を後にした。    ルカの寄宿先は、直斗と同じ清見台地区にあった。自然に帰宅路が被ってしまう。  直斗は、ルカを背後に置き去りにしながら、歩き続けた。  「待ってください。さっき変なこと言ったのは謝ります」  「何言ってんだ。わざとのくせに」  ルカはスピードを上げて、直斗へ追いすがった。  「誤解です。ただのコミュニケーションの一貫ですよ」  追いすがり、横に並んだルカを再度、直斗は置き去りにする。それに対し、ルカは負けじと追いついた。  まるで競歩のレースだ。  あまりにもデッドヒートを続けていると、その内、通常の人間における速さの領分を越えてしまう恐れがある。今でも充分、おかしな速さだったかもしれない。二人とすれ違った小学生が、ポカンとした表情で二人に視線を投げ掛けていた。  直斗は立ち止まった。同時にルカも立ち止まり、直斗の顔を見つめる。  「言っておくけど、俺の血は絶対に飲ませないからな。付き纏っても無駄だ」  「ええ。わかっています。今すぐに飲ませろとは言いません」  「これから先も駄目だ」  直斗は突っ込みに似た台詞を吐き捨てると、ルカを無視して歩き出した。  なおも付いて来るルカを意識しないようにしながら、直斗は清見台の自宅へと辿り着いた。  直斗は、玄関の扉を開けようと手を伸ばす。未だに、ルカは幽霊のように直斗をぴったりとマークしている。  「おい」  「はい」  「いや、はいじゃなくて」  直斗はさすがに困惑した。こいつは本気で俺の家に入ろうとしているのか? 積極的過ぎだろ。そんなに血を飲みたいのか。  「お邪魔してもいいですか?」  「駄目に決まっているだろ」  直斗が呆れたように言った瞬間だった。玄関の扉が唐突に開いた。直斗は扉に当たらないよう、咄嗟に避ける。  家から出てきたのは春香だ。これから友達の家に遊びにでも行くのだろう。  玄関の前にいた直斗を発見した春香は、嬉しそうな声を上げた。  「あ、お兄ちゃん、お帰りー!」  春香は直斗の腰にしがみ付いた。そして、誰かがそばにいることに気が付くと、しがみ付いたまま、そっとルカの顔を見上げた。  春香は人見知りしがちな女の子であり、初対面の人間に対しては、警戒心が強かった。後から親密になったとは言え、それはレイラの時も同様だった。ましてや異世界人であったため、その警戒心は尚更跳ね上がったはず。  だが、今回はまるで違った。春香の目が輝いたのだ。テレビで見る男性アイドルを目の前で見たファンのような、羨望が入り混じった輝きだった。  「こんにちわ」  ルカは、歯磨き粉のCMに出演しているモデルのように、白い歯を見せて挨拶を行った。長い八重歯が垣間見えるが、むしろセクシャリズムを増加させていた。  「こ、こんにちわ」  春香は赤くなり、熱に浮かされたような表情で、ルカの顔を見つめた。  直斗は、春香が一撃で恋に落ちたことを悟り、目をつぶりたくなった。    いつかの光景のように、ルカのそばにべっとりと寄り添った春香は、楽しそうに笑い声を上げていた。  あれから春香は、友達の家に行くことを取り止め、ルカとの遊びを切望した。なし崩し的に、ルカを家へと入れることを余儀なくされ、交流を深めざるを得ない状況になった。  春香は、レイラが行方不明になったことを知り、ショックを受けていたが、今回のルカの出現で、幾分か薄れたようである。むしろ、普段よりも元気を見せていた。  相変わらずの春香の提案で、三人は、トランプに興じた。夕方になり、空が暗くなり始めた頃、蛍子が帰宅した。  直斗はルカに帰宅を進言しようとしたが、ルカの挨拶を受けた蛍子は目の色を変えた。  「ぜひ、ご飯を食べて行って!」  既婚者であるはずの蛍子も、ルカに心を射抜かれたようだ。鼻息を荒くし、そう勧めた。直斗は母親のそのような姿に、呆れかえり、また、ルカを追い出す口実が無くなったことに溜息をついた。  今日の夕飯は、ハンバーグをメインにした洋食だった。サラダにオニオンスープを添えてある。  篠崎家では、これでも普段よりは豪華な部類に入る。だが、蛍子は、ルカが来るならもっと豪勢なメニューにしたのに、と報連相の不備について、直斗を咎めた。  達夫は残業のため、帰っておらず、家族三人と、異世界人の四人での夕食となった。  夕食をとっている最中、春香はひっきりなしにルカへ話しかけていた。恋する乙女のように、目を煌かせながら、様々な内容の話を口にする。今日あった出来事や、勉強のこと、クラスメイトのこと。果てや、あの先生とあの先生が浮気していることや、校長先生がギャンブルにはまっているなどと言った、下らない噂のような話まで始めている。その辺りは、さすがに蛍子の注意が飛んだ。  その蛍子も、ルカの生態が気になるのか、根掘り葉掘り、質問攻めを行っていた。  ルカは、それらに対し、何ら気後れすることなく、華麗に受け答えを行っていた。レイラもそうだったが、異世界人は、人当たりが良いことがデフォルトなのかと直斗は思う。  盛会と化した夕食は終わりを迎え、ルカは帰宅に入った。  「そこまで送って行くよ」  不本意だったが、蛍子から不親切な奴だと怒られそうだったので、直斗は、ルカと一緒に篠崎家を出る。  外はすでに闇に覆われていた。  直斗とルカは、無言でその中を歩く。ルカの下宿先は、木更津高専近くらしいので、直斗の家からさほど遠くはない。  清見台の住宅街を五分ほど歩き、木更津高専のそばまでやって来た。柵に囲まれた敷地内には、まだ人が残っているようだ。ちらほら直斗と同年代ほどの私服姿の生徒達が見える。  直斗は立ち止まり、ここで引き返す旨をルカに伝えた。ルカは頭を深々と下げて、今日のお礼を言った。  直斗は、踵を返し、その場を去ろうとする。その背に、ルカは声をかけた。  「直斗さん」  直斗は振り返った。ルカは光るような眼差しをこちらに向けていた。  「敵は異世界人や、国の人間ばかりだと思わない方がいいです。身近な人間にも脅威があるかもしれませんよ」  「お前がそれを言うのか」  直斗の反論に、ルカは爽やかな笑みを浮かべた。  「ただのアドバイスです。ではまた明日」  ルカは再度頭を下げ、直斗に背を向けて、歩き出した。  直斗はしばらくその背中を見送った後、もと来た道を引き返した。    翌日、晴れ上がった青空の中、テスト明けの授業が始まった。  テスト前のピリピリとした重圧は成りを潜め、開放感のある学校生活を取り戻していた。その上、後二週間もしない内に夏休みが始まるのだ。自然に生徒達の心は浮き足立っていた。  二年三組の担任教師である遠田(とおだ)は、期末試験が終わり、一段落を迎えていた。しかし、少しも胸を撫で下ろす余裕はなかった。留学生である異世界人の女子生徒が行方不明になった問題もあり、息を付く暇もなく、忙殺されていた。  もっとも、留学生の件そのものは、隣のクラスの担任と、一定の管理職以上の人間が対応に当たっており、遠田自身が直接、出張る必要はなかった。  遠田の教員としての職務分掌は、教務担当であるため、学校行事の計画や時程の調整、カリキュラム作成などがあった。 留学生が行方不明になったせいで、大幅な修正を余儀なくされているのだ。とはいえ、カリキュラムは、口うるさい教諭以外は、目を通すだけで、さして突っ込まれないだろうから、まだ気楽ではあったが。  昼休みになり、遠田は出前のカツ丼を早々と食べ終えると、夏休み明けの学校行事の修正に勤しんでいた。  しばらく作業に没頭していたものの、疲れからか、様々な思考が、遠田の頭を混線したケーブルのように、駆け巡った。  パソコン画面のエクセルシートを見つめながら、遠田は思う。  そもそも、自分は、異世界からの留学生を受け入れるなど、反対だった。突如として、戦争を仕掛けてくる得体の知れない連中なのだ。信頼など置けるわけがない。  国連や諸外国の首脳達にしてもそうだ。『ロビン・フッド』などと、わけのわからない人物の活躍で異世界側は降伏したが、そこで、そのまま断絶するべきだったのだ。それなのに、乱心した如く、交流を図り、凶賊共を受け入れる姿勢を取った。烏滸(おこ)の沙汰と言うより他にない。  挙句の果てに、文科省も留学生を迎合するような制度を整え、扶桑高校理事長の御神はそれに乗じた。これにはさすがに遠田も頭を抱えた。御神に直訴したものの、全く聞き入れて貰えず、逆に言い包められてしまった。  その結果がこれである。  遠田は、沸き起こった怒りのせいで、作業の手が滞っていることに気が付いた。  溜息をつき、遠田は自分のデスクから立つ。御神は今日は留学生の一件で、出張していたが、もしも今現在、目の前にいたら、一喝してやろうと考えるほど、腸が煮えくり返っていた。  精神安定を図るため、職員室近くにある、非常階段へと向かう。  非常階段の鉄扉を開ける。通常、非常階段は施錠されているが、ここだけは別だった。  遠田は、階段を登り、一階と二階を繋ぐ踊り場へ辿り着く。そこには、スタンド式の灰皿が置いてあった。  近年、喫煙者の風当たりは強くなり、こんな場所まで追いやられる結果になった。仕方がないとは言え、面倒だ。  遠田は、胸ポケットから、セブンスターを一本取り出し、口に咥えて火を点ける。どこかバニラのような甘い味がする煙を、肺腑の奥まで吸い込む。そして吐き出す。それを何度か繰り返した。  煙が肺へと出入りする度に、全身に栄養が回り、気分が晴れるのを遠田は実感した。  その時である。  踊り場のすぐ下の方から、女子生徒のものらしき、小さな悲鳴が聞こえた。悲鳴と言うよりかは、息を飲むと言った方が正しいか。ちょうど、ゴキブリやネズミを発見したら、このような声を出すだろう。  この非常階段の下は、ゴミ捨て場になっているはずだ。おそらく、ゴミを捨てに来た女子生徒が、ゴキブリにでも遭遇して、声を上げたに違いない。  遠田は、タバコを手に持ったまま、踊り場から、下を覗いた。  その途端、遠田の動きが硬直した。  下には声の主である女子生徒がいたが、その目の前にいたのは、ゴキブリでも、ネズミでもなかった。  (ひぐま)かと最初は思った。だが、こんな千葉のど真ん中に、羆がいるわけがない。いや、それを言ったら、こんな生き物自体、この日本に存在していることがおかしい。毛皮に覆われた巨大な体躯の獣。羆と狼を会わせたような感じの――。  突然遭遇したのだろう、女子生徒は、蛇に睨まれた蛙のように、硬直している。声すらろくに出せないようだ。  羆のような生物は、鋭い牙を剥き出しにした。肉食獣特有の犬歯が、ここからでも確認出来た。  遠田は、あっと言う声を漏らした。羆のような生物は、固まって動けないでいる女子生徒の、左肩から、わき腹にかけて、大きくかぶり付いた。柘榴の断面のような、女子生徒の肉体の内部が外に晒された。赤黒い肉や内臓、その所々に、白い骨が混じっているのが見える。  それも束の間、冠水したかのように血が溢れ、女子生徒は、赤く染まった。  遠田が見続けることが出来たのは、そこまでだった。踊り場に再度顔を引っ込め、呆然と立ち尽くした。  額は汗でぐっしょりと濡れ、首筋から、滝のように流れ落ちていた。  気が付くと、手に持っていたタバコは、根元まで燃え尽き、ただの灰の棒になっていた。  遠田は、そのタバコを投げ捨て、慌てて校舎内部へ逃げ込んだ。  校舎の中は、いつもと変わらない風景が広がっていた。生意気で馬鹿な生徒達が、若さに任せた足取りで廊下を行き来している。幽鬼のような風体の遠田を見て、近くを歩いていた生徒達がクスクスと笑い合っていた。  先ほど見た異様な光景とは裏腹の日常の姿に、遠田は混乱した。  さっきのは、幻覚だったのだろうか。  遠田が立ちすくんでいると、声がかかった。  「どうしたんですか? 遠田先生」  いつの間にか、同学年の担任の塩塚(しおづか)教諭が目の前にいた。呆れた顔で遠田を上から下へと見やっている。塩塚教諭は、小うるさい、遠田が苦手とする中年女性だ。  「塩塚先生!」  遠田は叫んだ。先ほど見た光景を説明しようとした。  だが、その前に、眼前にいる塩塚教諭の目が、恐怖に見開かれた様を目撃する。その視線は、自分にではなく、自分の背後に向けられていることに遠田は気が付いた。  右わき腹から、左わき腹にかけて、衝撃が走った。  廊下が大きく回転した。乱気流に弄ばれるプロペラ機に乗っているように、世界が回っている。  遠田の上半身は、廊下へと落ちた。たった今まで、遠田の上半身にくっ付いていた下半身が、数メートル先に見えた。その後ろに、例の生物がいた。ライオンのような太い足に、鉈ほどの大きさの爪が生えている。それが、自分を両断したのだと遠田は理解した。  消え行く意識の中、遠田が最後に耳にしたのは、自身の返り血をふんだんに浴びた、塩塚教諭の金切り声だった。    「何だ?」  最初に声を発したのは裕也だった。  その時、直斗達は食堂とA棟校舎を繋ぐ、渡り廊下にいた。そばには俊一とルカもいる。三人は、食堂で食事を終えた後、B棟校舎にある自分達の教室へ戻る最中だった。  ルカは一年生だったが、金魚の糞のように直斗に付き纏っているため、ルカの向かう先も必然的に直斗と同じになる。それは、食堂に向かう際も同様であったため、二年生と一年生の異世界人という、おかしな組み合わせでの昼食となっていた。  「何か騒がしいね」  俊一も気が付く。裕也が向けている、A棟校舎へ視線を走らせる。A棟は職員室がある建物だ。  直斗もそちらを見る。確かに騒がしい。生徒や教師の悲鳴や叫ぶ声が聞こえる。尋常ではない雰囲気だ。  直斗達の周りにいる他の生徒達も、異様な空気を感じ取り、立ち止まってA棟の様子を伺っていた。  渡り廊下からは、A棟の一部分しか見えないが、一階の廊下部分は、はっきりと確認出来る。  窓ガラス越しに、その廊下を生徒達が血相を変えて、駆けている姿が目に入った。恐慌状態といった様子だ。彼らは、皆、一方向へ逃げていた。どうやら、職員室があるエリアから遠ざかろうとしているようだ。  逃げ惑う生徒の中の一人が、こちらへ逃げ込んできた。その顔は驚愕に見開かれ、青ざめていた。そして叫ぶ。  「化け物だ!」  その生徒は、そのまま食堂方面へ走り去っていった。  「化け物……?」  裕也がポツリと呟く。そして、裕也は寒気がしたように、自身の腕を撫でた。裕也は夏服だったが、日焼けしたむき出しの肌に、鳥肌が生じているのを直斗は確認した。  周囲にいた生徒達も、唖然と立ち竦んでいるか、食堂へと引き返していた。  明らかに異常な事態が起こっている。  一体何が。直斗はそう思った。  その時である。  車が衝突したような、大きな音が響き渡った。周囲の人間は、皆、その轟音がした方を見た。  黒い塊のような何かが、A棟校舎から、渡り廊下に面している窓ガラスを窓枠ごと破り、外へと飛び出したのだ。  その何かは、丸太のような太い脚で地面を蹴りながら、こちらに向かって突進して来ている。  「ひい」  隣で俊一が情けない悲鳴を上げた。周りの生徒達からも、悲鳴や息を飲む声が聞こえた。  A棟から飛び出した黒い塊は、直斗の目に、熊か巨大な狼のように見えた。四足歩行の肉体は、黒い毛並みを持ち、頭部は狼のように獰猛な容貌をしている。胴体は熊の如く、強靭そうな肉の塊を誇っていた。十八世紀のフランスに、突如として現れ、大勢の農民を食い殺した『ジェヴォーダンの獣』を思わせる姿だった。  その獣が四人の目の前まで迫る。裕也と俊一は恐怖で動けず、直斗も瞬間、硬直してしまった。  獣の振り下ろした、腕の先端から、中華包丁のように、太い爪が生えているのを直斗は確認した。  青白い光が周囲を照らした。同時に、タイヤがパンクしたような炸裂音も発生し、嫌な臭いが鼻をついた。  黒い獣は、痙攣し、その場にどさりと倒れた。獣の体からは、煙が薄く上がっている。  ルカが攻撃したのだとわかった。ルカは、帯電している右手を伸ばしたまま、獣を見下ろしている。  直斗も地面に倒れている獣に目を向けた。  何だ? この生物は。  直斗は異様な生物の前で困惑した。それは裕也や俊一も同じだった。幽霊でも見ているかのような表情をしている。  直斗は、それ以外に、思い当たる部分があった。こんな生物は今まで見たことがない。図鑑でも、テレビでも。つまり。  ルカが答えを発した。  「これは戦獣です」  「戦獣?」  「異世界の生物です。戦いに秀でた、四足歩行獣です」  やはりと思う。しかし、最も大きな疑問があった。  「なぜ、そんな生物がここに?」  直斗はその疑問を口にした。しかし、ルカは、困ったように首を横に振った。  直斗は唾を飲み込んだ。とてつもなく嫌な予感がする。破滅を呼び込む、崩落の音が聞こえる気がした。  「逃げよう!」  それまで固まったままだった裕也が、震える声でそう言った。彫りの深い顔が、恐怖に歪んでいた。  風圧が発生した。見ると、倒れたはずの戦獣が再び起き上がり、巨大な牙が生えた口で、ルカに踊りかかっていた。  雷鳴が轟き、戦獣は心臓を潰されたように、一度大きく跳ね上がると、再度倒れた。  そして、ようやく動かなくなった。  顛末を見ていた周囲の生徒達から、小さな歓声が上がった。裕也と俊一も、敬意が含まれた視線をルカに送っている。  だが、その歓声は、至る所から湧いた悲鳴でかき消された。  A棟校舎のみならず、食堂方面からも、悲鳴が聞こえる。  戦獣は、この一体だけではないのだ。  そして、くぐもった人間の声が辺りに響き渡った。  校内放送だ。  その放送は、耳にするだけで、不安を掻き立てるほど、焦りと恐怖に満ちていた。  『生徒の皆さん緊急事態です。落ち着いて運動場へ避難してください。校内に凶暴な動物が入り込みました。一刻も早く運動場へ避難してください』  そして、何かが破壊されたような耳障りな雑音と、悲鳴が聞こえ、やがて、放送は途絶えた。  それは、大きなパニックが発生する予兆だった。    母親が作った弁当を食べ終え、二年三組の教室で寛いでいた木場建治は、妙な放送を聞き、大きな胸のざわめきを覚えていた。  教室にいる他のクラスメイト達も、戸惑っている様子だ。凶暴な動物が校内に侵入したことを伝える内容だったが、誰も理解を示しておらず、混乱が生まれただけだった。  両隣の教室もそれは似たようなものらしく、ざわめきや、教師を呼びかけるような、困り果てた声がここまで聞こえてくる。  しかし、やがて、動きがあった。  クラスメイトの何名かが、思い思いに、教室から出始めた。教室の前方にいた、神崎志保も、友達と連れ立って、教室から出て行く姿が見える。  それらに触発されるように、次々と避難が開始された。  木場は焦燥感に襲われた。このまま教室に残っていることは、危険な気がした。状況は全く飲み込めないが、自分も皆と同じように、行動した方がいいかもしれない。  眼鏡のズレを直し、自分の席から立ち上がる。そして、皆の後を追った。  木場が廊下へ出ると、廊下は既に、避難を始めた生徒達でごった返していた。  目に付くのは、生徒ばかりで、避難を誘導するべき教師の姿が、なぜか見えなかった。そのせいで、生徒の避難が遅々として進まない。  なかなか前進しない状況の中、木場は、廊下の窓から下を覗いた。ここからは、B校舎とC校舎の間が確認できる。アスファルトの地面の上を、生徒達が右往左往していた。やはり、何か尋常ではないことが起こっているのだ。  そして、次の瞬間、木場は絶句した。  黒い大きな生物が、生徒を追うようにして、校舎の陰から飛び出してきた。その生物は、巨大な黒狼のような外見だった。  黒い狼は、次々に、逃げ惑う生徒を襲っていた。まるでサバンナの野生動物のように、背後から飛びかかり、首筋に牙を立てていた。あるいは、太い脚で、紙切れのように、生徒を引き裂いている。肉屋の店先に並んでいるような赤色の塊が、辺りに散らばり、アスファルトの色を変えた。  しかも、その生物は、一匹や二匹ではなかった。複数存在しているのが、ここからでも確認できる。  恐るべき生物を垣間見て、木場の足は激しく震えた。頭が、その生物を認識することを拒んでいる。あまりにも異様な光景だ。  木場と同じように、下を覗いていた他の生徒達が、口々に悲痛な声を上げた。皆が、それに引き寄せられ、窓の下を覗き、同じように叫び声を上げる。  パニックが大きくなり、恐怖が伝染しつつあった。滞っている人の流れが、無理に押され始め、圧迫感が生じる。それが次第に強くなり、所々から悲鳴や怒鳴り声が発せられた。  生徒達が、次第に恐慌状態に陥っていくのを木場は実感した。このままではいずれ、将棋倒しが発生し、大惨事になってしまう。  木場がそう懸念した時、一際大きな叫び声が発生した。一人ではなく、大勢の、腹の底から恐怖を訴える悲鳴だった。  それは階下からだったが、それが波のように伝播し、木場のいる階上に伝わってくる。それに従い、巨人が廊下を踏み鳴らすような音と、振動が発生していた。そして、あっという間に、直近まで迫る。  木場は見た。  人が空中を舞うのを。  最初は、誰かが、布の塊を空中へ放り投げたのかと思った。服が風で飛ばされたように、服の塊のような物が、生徒達の頭上を飛んだからだ。しかし、違うということがすぐにわかった。  それは、千切れ飛んだ生徒達の体のパーツだった。血飛沫と共に、玩具の人形のように、バラバラに引き裂かれた手足や内臓が、空中を舞っている。それらが周囲の生徒達に降り注ぎ、さらに悲鳴が増大した。  木場の肩に、薄ピンク色をした、蛇のような物体が張り付いた。断面から茶色いペースト状の物体が漏れ出ている。そこから、耐え難い便の臭気を感じ、それが人の大腸なのだとわかると、木場はその場で嘔吐した。  前方から、女子生徒の大きな悲鳴が聞こえた。  涙に濡れた目で、正面を見る。  あっという間に、引き裂かれた生徒達の死体の山が生まれ、そのせいで、前方の廊下にスペースが出来ていた。  そこに、それはいた。  窓を見下ろした時に見た、あの黒い狼だ。この狼が、廊下にいた生徒達を引き裂きながら、登って来たのだ。漆黒の体毛に、肉片や臓物の一部が付着している。非常におぞましい様相を呈していた。  その狼の前に、一人の女子生徒が、尻餅を着き、大きく戦慄いている。  同じクラスの神崎志保だった。  狼は、志保へ太い脚を振り上げた。脚の先端から、巨大な爪が現れる。  咄嗟のことだった。  木場は、ポケットに入れてあった指輪を取り出し、指に嵌めた。  嵌めると同時に、指輪の力場を感じるようになった。  木場は、手の平を志保に向け、その力場を開放した。志保は風に飛ばされたように、真横に吹き飛んだ。狼の腕は空振り、中空を切る。  志保は、死体の山にぶつかった。痛そうに呻いたが、怪我はないようだ。  狼が、木場の方を見た。シベリアンハスキーを思わせる、獰猛な目が、木場を敵だと認識していた。  木場は、指輪から感じ取れる力を全て解放した。クラスメイトへのパフォーマンスでは、見せなかったが、この指輪の底力は凄まじかった。  狼に手の平を向け、指輪の力を全てぶつける。こちらに歩み寄っていた狼の動きが止まり、微動だにしなくなった。  周囲の生き残った返り血にまみれた生徒達から、おーという、賞賛の声が発せられる。  いける。  木場は確信した。  頭の中で、アルミ缶を握り潰すイメージを行い、狼を圧殺しようとする。  狼は、再び歩き出した。同じように力をかけ続けているにも関わらず、何事もなかったかの如く、木場の目の前まで迫った。  唖然とした木場の視界は、上下に並んだ牙で占められた。鮫に飲まれる小魚のようだった。木場は頭からかぶりつかれたのだ。  大口に飲まれる瞬間、高価な指輪が、狼に対し、屁ほどもダメージを与えていないことを悟った。  やがて、暗闇が訪れた。    校内放送が途絶えた後、直斗達は、指示通り、運動場へ向かっていた。途中、何度か戦獣と遭遇したが、全てルカが倒していた。  学校中、既に阿鼻叫喚の嵐となっており、至る所で悲鳴や絶叫がこだましていた。戦獣は、確認しただけでも、全部で三十匹以上はいるようだ。  四人は、C棟校舎を抜け、その先にある体育館の側を通過するルートを取った。そこから、運動場へと出る。視界が開け、運動場が見渡せるようになった。  「駄目だ!」  運動場の様子を見た裕也が、絶望した叫び声を発した。  運動場にも、戦獣がいた。先に避難してきたのであろう、生徒達が、逃げ惑っている。  「学校の外に逃げよう!」  俊一が提案する。しかし、ルカは、首を振って答えた。  「それは不可能だと思います」  「どうして!?」  ルカは、前方の空を指差した。  「結界が張られています。これでは外に出ることは……」  直斗は、指が指された空を見た。目を凝らすと、薄っすらと黒いフィルターのようなものが掛かっていた。見回して確認すると、それは、野球ドームの外壁のように、学校を覆っていることに気が付く。  「結界って?」  「一種の障壁です。あれが展開されている以上、通過することが出来ません」  「一体誰が?」  「わかりません。ですが、この首謀者は、学校中の人間を殺すつもりのようです」  ルカの発言で、裕也と俊一は青ざめた。俊一は、細い目を見開き、混乱したように頭を抱える。  「一体どうしたらいい!?」  「とりあえず、体育館に逃げ込もうぜ」  裕也は、近くにある体育館の入り口を指差した。そこは、他の場所と違い、あまり荒らされてはいなかった。何となく、安全そうに見える。  裕也と俊一は競うようにして、体育館の入り口へ走り出す。  ルカは動かなかった。二人はそれに気が付き、立ち止まり怒鳴る。  「おい、行くぞ!」  促されたものの、ルカはその場から微動だにしない。そして、ルカは口を開いた。  「おそらく、この学校内のどこかに、首謀者はいるはずです。これほどの数の戦獣を統率するならば、ある程度の範囲内にいないと不可能ですから」  ルカは、直斗達に顔を向けた。そこに決意の色が現れていた。  「これから、戦獣を殺しつつ、その首謀者を探し出します。そうしないと、この惨状は止まらないでしょう」  直斗は頷いた。  「俺も行くよ」  直斗のその言葉に対し、裕也が唾を飛ばしながら、激昂した。  「何言ってんだよ直斗。お前が一緒に行っても意味がないだろ」  そして、裕也は、ルカに向かって言う。  「ルカ、俺達と一緒に体育館へ避難しよう。危険だよ。いずれ警察がくる。それまで待とう」  裕也のその言葉には、己の身をルカに守って欲しいという願望が込められていることに、直斗は気が付いた。それは俊一も同じで、しきりに頷いている。  しかし、ルカは、それに従わない選択を取った。  「結界がある以上、助けは当分来ません。結界を崩すのに、時間が掛かるからです。皆さんは、体育館へ避難してください。僕は首謀者を探します」  最後にルカは、直斗の顔を見つめた。  「直斗さんも避難を。ここは僕に任せてください」  ルカは、ニッコリと笑い、直斗の実情を理解した言葉を口にした。  そして、瞬時にその場から移動し、次に姿が見えた時は、運動場で走り回っている戦獣に、電撃を叩き込んでいた。  三人は、僅かの間、その場に佇んでいたが、裕也が、声を発した。  「体育館へ行こう」  三人は、体育館の入り口へ向かった。    体育館の入り口へ辿り着いた裕也は、扉に手を掛けた。しかし、扉には、鍵が掛かっていた。  裕也は舌打ちをする。本来、この時間は開放されているはずだ。  裕也は焦った。早く避難しないと、あの化け物がやってくる。  先頭にいた裕也は、体育館の扉を激しく叩いた。中から、人の声がする。先客がいるのだ。そいつらが、この扉を閉じたに違いない。  「おい! ここを開けろ!」  裕也は、渾身の限り叫んだ。誰か知らないが、早く開けるんだ。  すると、鍵を外す金属音がし、扉が開いた。裕也は、転がり込むようにして、中へ飛び込む。後に、俊一と、直斗が続いた。そして、すぐに扉は閉められた。  体育館の中には、意外なほど大勢の生徒が避難をしていた。全部で五十人くらいだろうか。中には、自身の怪我か、あるいは返り血を浴びたのか、制服が血に染まっている者もいた。  裕也は、それらの顔を見渡した。皆、恐怖に覆われた表情をしている。青ざめ、強張った顔だ。おそらく、自分もそのような顔をしているんだと、裕也はぼんやりと思った。  「外は、まだ助けが来ないんですか?」  そう裕也に尋ねたのは、一年生であろう、小柄な女子だ。先ほどから、子犬のように震えている。  裕也は、頷いた。そして、先ほど見た結界の話をする。皆は、一様に悲痛な表情に変わった。動揺が伝わってくる。  その気持ちは、裕也も同じだった。今すぐにでも、蹲って、震えたい。  俊一が声を上げた。  「そう言えば、外部との連絡は?」  裕也はハッとした。ルカ曰く、助けが来ても、結界を通るのに時間が掛かるらしいが、それは、助けを呼んでいないことには始まらない。それに、他に何か、打開策が生まれる可能性があった。  裕也は、ポケットから、スマートフォンを取り出した。  だが、先に体育館へ避難していた連中は、もう既に試したのだろう。一人が、諦めたような口調で言った。  「それが、全く繋がらないんです。誰一人」  裕也は、自身のスマートフォンの画面を見た。上部の通信状態を示すアンテナのマークが全て消滅し、圏外表示に切り替わっていた。  試しに110番にかけてみたが、圏外を知らせるアナウンスが流れ、無駄なことだと知った。恐らく、結界は、通信を遮断する効果もあるのだろう。  八方塞がりだった。  絶望が、自身の足元から這い上がってくるのを裕也は覚えた。吐き気が込み上げ、思わず手で口元を覆う。  裕也は俊一を見た。俊一もスマートフォンを片手に、連絡を試みているが、繋がらないようだ。悲しそうに首を横に振る。  俊一が駄目なら、直斗はどうだろう。キャリアによっては、繋がるかもしれない。  裕也は、直斗の姿を探した。  だが、直斗の姿が見当たらない。一瞬、外に置いて来たのかと思ったが、一緒に中に入ったことは確認している。  体育館の中を見渡しても、直斗の姿はなかった。  直斗が、煙のように消えていた。
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