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僕のパソコンのアホーによると、青少年の徒歩旅行、自転車旅行のために簡素、清潔、廉価な宿泊施設のこと。青少年の自然との触れあいや、国境、人種、宗教なとを越えた相互交流の機会を提供することを目的としている。とある。だからなべっちの家は2階建てでお客さん用の部屋が16部屋あり、そのほかにご両親の部屋、なべっちの兄弟の部屋が3部屋と食堂やお風呂そして廊下には卓球台もあった。僕らはたまに日曜日に自転車に乗り太地の平見まで遊びに行っていって卓球とかしてたのである。午前中の内に行くとお母さんがお客さんに出す昼ご飯のカツ丼とかを僕らの分も作ってくれて食べさせてくれたりもした。絶品だった。ある日僕らは、音楽好きのなべっちが買ったキーボードを見になべっちの家に行き、キーボードを弾いたり、その頃弾き始めたギターとギターでのベースとキーボードとボーカルでバンドごっこをしたりした。なべっちの家のユースホステルも平成21年の6月のまで続いたが残念ながら閉館した。そして実はここからが本題なのだが、我が那智勝浦町にも昔ユースホステルがあったのである。場所は那智駅から那智山へ向かう県道の入り口すぐ、補陀洛山寺の隣りにある渚の森公園の場所である。
僕が平成5年に観光協会に入社したときは、まだその建物が残っていたが営業はしていなかったと思う。名前は正式には和歌山県 那智ユースホステルで、昭和34年6月営業開始と記録に残っている。おそらく30年くらいの営業だったのであろう。僕が観光協会に入ったときは、たしか建物の一部を観光協会のイベントの物品の倉庫に使っていた。この建物の側には、熊野古道の振り分け石がある。この振り分け石は、紀伊半島の西側を海沿いに進む大辺路、紀伊半島の東側を海沿いに南下する伊勢路、そして田辺、本宮、那智を結ぶ中辺路の分岐点を示す道標である。今もこの振り分け石は残っている。ただ、那智ユースホステルは、解体されその跡地は整備され渚の森公園となっている。これも時代の流れか。那智ユースホステルはおそらくたくさんのお客さんを迎え、様々なドラマが生まれたのだろう。那智勝浦町の良き思い出である。
第59話 終わり
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