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一瞬の間があった後、わずかに喉を動かし「すみません」とボソッと呟く。
聞いたこともない低い声に目を丸くすると、湯下さんは軽く頭を下げ、そのまま私たちの横をすり抜けていった。
毎回取材に行くときに出していたはしゃいだ靴音とは程遠い、ツカツカと無機質な足取りで。
その背中がいかにも重い空気を放っている。まるで、数時間前にここから出て行った私のようだ。
よっぽど行きたくないのか?でも草野球チームでしょ、湯下さんからしたら願ってもない仕事のはずだけど・・・
出がけに何かあったんだろうか。
あとで圭にでも聞いてみようと思いながら遠ざかる湯下さんを無意識に眺めていると、上から小さなため息が降ってきた。
「彼、いつもああなの?」
「え?」
「小見さんがいないと何もできないような人かってこと」
乾いた声がやけに耳に触り、反射的に東雲さんを見上げる。
フレームの奥の瞳と視線がぶつかった時、自分が彼を睨み付けてると気付いた。
「そんなことないですよ。湯下さんだってとても有能なライターなんですから」
そりゃ数々の伝説を持ってるし、東雲さんが目にして来た湯下さんの印象では説得力がないかもしれない。
でも彼は間違いなく、路地裏の秘密に必要な人間なのだ。
その胡散臭い笑顔と違い、明るく裏表のない表情がいつも取材をスムーズにさせてきた。
何も知らないくせに馬鹿にするなよ、とつい語尾がきつくなれば、東雲さんはふっと目を閉じて口角を上げる。
なんとなく、疼く気持ちをこらえるような楽しげな笑みに見えた。
「何ニヤニヤしてるんですか」
「そう見える?」
「犯罪者みたいですよ、今の格好も相まって。早く離れてください」
「まず君がその足をどけてくれたらね」
ああ・・・どおりで、柔らかい床だなと。
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