埒外

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埒外

 あれから、どれくらいの時間が経過したのか。  日が沈むにつれて急速に密度を増していく闇と血臭に、フィオナは時間の感覚を失った。  二顎兎擬(フタアゴウサギモドキ)は愛くるしい外観と柔らかな被毛の下に凶暴性を隠匿し、群れで狩りを行う。囮役(おとりやく)が獲物の正面に姿を見せて注意を引き付け、体格に優れる個体がその背後から忍び寄り、発達した後脚を活かして急襲を掛けて仕留める。  いま交戦状態にある群れの中には、体格で成人男性を優に上回る個体も散見された。自然、膂力と技量に優れるギケイが前衛で彼らに対峙し、フィオナは横並びになった岩を背に松明を掲げて、群れから突出した個体を牽制する後衛を担うことになった。  後方から戦況を俯瞰する彼女がまず気付いたのは、二顎兎擬の不可解な行動だった。  先刻のギケイが言った「頭部に刻まれた線上の模様には、太陽の眩しさを減じる効果がある」という説を踏まえると、彼らは基本的に昼行性なのではないのか。だが、日が落ちた現在も、この凶暴な兎紛いの肉食獣の群れは、際限なく襲いかかってきている。  最初に背後から奇襲を仕掛けてきた個体に続き、周囲には既に十体以上の二顎兎擬が物言わぬ肉塊となって横たわっていた。血臭に誘われた大型猛禽類が上空を旋回し、瑠璃雀蜂を始め中型の肉食昆虫類や蜘蛛類の気配も集まり始めている。  草原の一隅、突如として現出した血の海で、捕食者が被捕食者へと瞬時に転じる。  群れを形成して狩りをする程の社会性を有する肉食動物ならば、司令塔となるリーダーが引き際を見極め、撤退させるはずだ。にも関わらず、彼らはいまだに二人の包囲を解く気配すら見せず、散発的な波状攻撃を繰り返している。  獲物への執着が異常に強い性質の生物なのか。だが、これでは群れへの被害が余りに大き過ぎる。場合によっては全滅しかねない……  そこまで黙考して、自らの胸中を()ぎった言葉にフィオナは慄然とする。「全滅」。そう、目の前で繰り広げられる非現実的な光景の延長線上にそれ(、、)は、あまりにも自然に浮かんでいた。  だが、たった二人の人間が、こんな肉食動物の群れに襲われて生き残れるわけがない。むしろ、我々二人が命を落とす方が遙かに自然(、、、、、)ではないのか……  膝の震えが、止まらない。背筋を這い上がる戦慄に、歯の根が合わない。得体の知れない寒気に蝕まれ、掲げた松明がどうしようもなく無様に揺れる。  いままさに息絶えようとしている  一頭の二顎兎擬(フタアゴウサギモドキ)  その傍らに身を沈めて  残心を取るギケイ  腕から垂れる血刀  次々と斬殺される群れの同胞  逆上に体毛を逆立て  前足を地面に叩きつける獣  その威嚇の仕草が死線を跨がせる  刹那、獣の真横に突如として現れるギケイ  死角から斬り上げる一閃  己の胴が前後に断たれたことも知らず  絶命  斜め後方  恐慌をきたし奇声を放つ獣  直上に身を踊らせたギケイに  頸椎を断たれ  絶命  側方  理不尽な死の現出から本能的に飛び退いた獣  着地点に伏して待つギケイに  肋骨の狭間、心臓を貫かれ  絶命  そして、  フィオナが背にした岩壁の上方  必殺の確信を抱いて身を踊らせる獣  獲物の小さな頭部を噛み砕く間際の(あぎと)を  二度と閉じられぬまま上下に削ぎ断たれ  絶命  この間、わずか一呼吸  およそ、目の前の光景に理解が及ばない。  何なのだ、これは。  人間ならば誰しもが物心付くより前に培い始める身体感覚。経験則がもたらす物理法則への強制理解。抗し難き重力への無意識な絶対服従。  そういった概念が、全く通用しない。  出会った瞬間から、常人ではないとは解っていた。ムーア公国軍の拘束からフィオナを解放した夜、巨躯の剣士から目の前の男の姿へ瞬時に変貌したことも不可解の一言に尽きる。  それに加えて、この光景。余りにも埒外(らちがい)に過ぎる。  人が全力で躯を動かせる時間には、自ずと限界がある。生来の恵まれた身体能力に軍役で磨きを掛けたフィオナですら、小型の個体を数頭仕留めただけで四肢が重く、身のこなしが精細を欠きつつあるというのに。  目の前の男は、返り血の一滴すら浴びていない。  鋭利な刀剣を縦横無尽に振るいながら、標的の傷口が鮮血を迸らせるより速く身を翻し、次の標的に斬撃を浴びせている。  もはや、人の(わざ)ではない。  フィオナは確信した。確信させられた。  ヴェスコニア人の少年の生殺を巡ってフィオナと演じた今朝方の小競り合いも、明らかに茶番だった。戦慄に熱を帯びた思考でそう思い当たるが、いまとなってはそれも些末事に過ぎない。  辺り一帯に立ちこめる血煙に、フィオナが掲げる松明の灯りが濁る。  止むことを知らぬ獣の群れとギケイの狭間で、仄かな輝きを宿した白刃がいつまでも踊り続けた。
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