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帰結
「お主の問いに応えよう」
それが自身に向けられた言葉だとフィオナが気付くまで、暫時の沈思を要した。視線を上げると、彼女に向けられたギケイの静かな眼差しがある。
「俺が何者か、知りたいのであろう」
辺り一帯を包む静寂に血臭が満ちて、肌に粘ついていた。延々に続くかに思えた二顎兎擬による襲撃。だが、いまや視界の中に動く物は一切なく、赤黒く濡れた下草だけが夜明けの微風に重く揺れている。
「一振りの刀。それが俺の在り方だ。およそ白兵戦で後れを取ることはない」
低く呟くギケイを囲んで、何十頭という肉食獣が辺り一帯に身を横たえている。そのほとんどが一刀の下に命を絶たれ、骸を晒していた。目の前の男は血の海の只中に佇みながら、息を切らすどころか、返り血すら浴びていない。
フィオナの灰色の瞳が、不快に細められた。
「お前の力量は認めよう。だが、兎と人は違うぞ」
「そうか。では、試してみるとしよう」
血刀の柄巻を両掌に軽く包み、軸足の先にフィオナを捉えるギケイ。摺り足が血溜まりを踏みしめ、彼女との距離が縮み始める。
その姿に、殺気はない。だが、それはこの襲撃の口火を切った一頭目の二顎兎擬を屠った瞬間と同じ。強ばるフィオナの頬を草原の風がそっと冷やした刹那、彼女の日焼けした項に怜悧な鋼が触れる。
瞬きはしていない。していないはずだ。しかし、視界から音もなく掻き消えたギケイが、いま背後から彼女の首筋に刀をあてがっている。それが、振り返らずとも感じられた。振り返れば、この凍った感触がそのままに、首筋を横薙ぎに撫でるのだろう。
「フィオナ、お主は何者だ」
ギケイに対して幾度となく投げ掛けてきた問いが、いま彼女自身に向けられていた。だが、応じるに躊躇う理由はない。目蓋を落とし、迷いなく一息に言い切る。
「知れたことを。私は、このアルタイル王国の王女、フィオナ・ガーウェンだ」
「たわけ。それは周囲が与えた御輿に過ぎぬ。俺はお主自身に問うているのだ」
間髪挟まずに切り返すギケイ。その意味するところが腑に落ちるにつれて、フィオナの喉から言葉が失われていった。何か言い返そうと焦る彼女生来の気丈な性格と、突きつけられた問い掛けの本質への認識がせめぎ合っている。
「それは…… だが、私はずっと……」
そうだ。いつ、自身がその役割を受け入れたのか記憶にない。私は、気が付けば既に王女だったのだ。誰がそれを望んだのか、それが幸運なのか不遇なのか、この道が何処にたどり着くのか。そんなことは考えたことが……
だが、そもそも選択肢など、提示されなかったではないか。
唐突に、視界が滲んだ。馬鹿な。軍務に服すと決めた日、涙など捨てたはず。
ギケイの乾いた溜息が、耳に届いた。
「返答に窮するか。自身ですら答えられぬ問いを、俺に対してまくし立ててきたとは…… 若き日のガーウェンは、それなりに面白い返しをしたぞ」
「ガーウェン…… それは、我が国の始祖、建国王ガーウェンのことなのか。お前は一体……」
「お主の選択次第では、その問いにもいずれ答えよう。だが、いまは時間がない」
「はぐらかすな、ギケイ」
「……来たぞ。お主の判断の帰結が」
ギケイが眼差しで彼女の背後、二人が抜けてきた山間部を指し示す。振り返ったフィオナの視界、その中腹付近に動く物が映った。朝焼けの微光を頼りに焦点を結ぶ彼女の瞳孔が、動揺に見開かれた。
脚が短く、がっしりとした体躯の一群の馬。軍馬ではない。この山間部に特有の品種だろう。そして、それらに跨がる人影。くすんだ色調の簡素な服装から、近隣に住まうヴェスコニア人であることが見て取れる。
偶然にこの場に現れたと思いたいというフィオナの淡い期待は、次の瞬間、彼女とギケイの姿を認めた先頭の馬が駆け出す光景に砕かれた。慌てて拍車を入れた後続の馬がそれに続く。
「まずは、話し合いを」
側に立つギケイに声を掛けた刹那、彼の細身の刀剣がフィオナに向かって斜め下から斬り上げられた。鋭い音を立てて両断された何かが、地面を堅く叩く。確かめるまでもなく、フィオナにはわかっていた。国境警備隊としてのこれまでの任務で、幾度となく耳にした飛来音。
「どうやら、向こうにその気はないらしいが」
彼の刃に弾かれ、二つに断たれた短矢を見下ろすフィオナの胸中に、言い知れない苦さが満ちる。
「……また殺めるのか」
「無論。一国の王族に生まれながら、血と無縁でいられるわけがなかろう」
「ヴェスコニア人の内には王権に抗する一派もあるが、それでも彼らが我が国の臣民であることに変わりはないのだぞ」
「俺はまだこの国の事情に疎い。だが、いつの時代であろうと、王族に弓を射掛けた時点で重罪人であろうよ」
あくまでも落ち着き払ったギケイの口調に、下唇に歯を突き立てて苛立ちを露わにするフィオナ。やがて彼ら二人の前に、追い付いてきた一群の馬とそれを駆る人物達が扇状に轡を並べた。
統一を欠いた服装と武器。中には、家畜小屋から持ち出したと思しき熊手を握っている者もいる。馬達は防具すら纏っていない。どう見ても、正規の軍人ではない。そもそもアルタイル王国がヴェスコニア人達に組織することを許すのは、最低限度の自治隊組織だけだった。
十数頭の馬を見渡すと、そのうち一頭の馬上に小柄な少年の姿があるのに目が止まった。相乗りの男性の口早な囁きに対して、フィオナ達を見つめながら頻りに頷き返している。薄く、小柄な躯。こちらに向けられた利発そうな瞳。
確かめるまでもなく、今朝方の洞窟で遭遇して逃げ去った少年に違いない。その口許に微笑が浮かぶ。
唇を大きく歪ませた、暗い笑みだった。
胸中が、苦く焦げる。急速に硬く冷えて脱力していく両足に抗する為、半身に躯を開いて腰を沈めるフィオナ。強ばった五指を無理矢理に広げ、愛用の片刃剣の柄に絡み付けて握り込む。
「兎の骸」
「……なに?」
「後ろに転がるそれの陰に走り、耳を塞いでおけ。すぐに、終わらせる」
胸に落ちていくギケイの言葉が、やがて言い知れぬ怒りとなってフィオナの全身を打ちのめした。かつて経験したことがない純度の塊が、彼女の意識を白く満たしていく。四肢がどうしようもなく打ち震え、肋骨の下で痙攣する臓腑が感じられた。
「お前……! 一体どこまで私を愚弄すれば気が済むのだ」
「ほぉ。少しはマシな面構えになってきたではないか」
「ほざけ。切り抜けるぞ」
二人の背後に四肢累々と積み上がる二顎兎擬に気付いたヴェスコニア人達に、動揺が走るのが見て取れた。彼らはその場で足踏みするばかりで、小声で何事か囁き合っている。
「お主、その手で人を殺めたことがあるのか」
押し黙ったまま、粘つく両掌で片刃剣の柄を握り直すフィオナ。
「怖いか」
「怖くはない。だが」
「まだ、迷いがある」
「……そうだ」
「それで良い。だが、戦場に迷いを落ち込む者は、真っ先に死ぬ。あるいは、周囲の人間を犬死にさせる」
「御託はいらぬ。自分の始末は、自分でつける」
自らの言葉を蹴りつける様に、前のめりに駆け出すフィオナ。その向かう先には、今朝方の少年を相乗りさせた男が駆る馬。あれがこの一団の首領格だろう。
切り刻んだ心を勢いに変えて、次第に遠ざかっていく細い背中。
見送るギケイの姿が暁光に一瞬霞んで、黒く掻き消えた。
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