絶叫

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絶叫

 それがいつのことだったのか、記憶が定かではない。  雨が多く、湿った暑さがまとわりつく夏だった。フィオナが、そして兄のラーズ・ガーウェンが、まだ子供でいられた頃のこと。毎年、父母と共に訪れる避暑地の屋敷があった。  普段は果断な姿勢で政務に臨む父、生来の気丈な気質と才知を秘して社交に勤しむ母。それは二人にとっても、僅かながら心を寛げられる一時だったのだろう。フィオナにとって数少ない、幼少期の慈しむべき思い出のほとんどが、この屋敷を擁する広大な敷地内での出来事だった。 「こんなの登れないわ、お兄様。」 「大丈夫だって。そこの岩を掴んで上がっていくんだよ、フィオナ」  その日、来賓を迎えて静かな慌ただしさに包まれる屋敷を、フィオナは抜け出した。兄のラーズに(そそのか)されるまま、二人で遠乗りをして辿り着いた山中。この時点でも既にフィオナの小さな胸には納めきれない程の冒険だったが、渓谷の中途に馬を係留した兄はさらに奥に分け入って上流を目指そうと彼女を誘った。  いま、フィオナは兄の肩を遠慮気味に足場にしながら、精一杯に伸ばした四肢で濡れた岩壁に張り付き、その頂に手を掛けようとしている。兄の助言に従って、決して下方を見ない様に天に向けた顎の先、未だ見えない地面の凹凸を五指の腹で探る。 「フィオナ、その辺りに、ちょうど指を掛ける溝があるだろう。もう少し右だよ。」 「怖いわ、お兄様。無理よ」 「僕が下でしっかり支えているから、心配ないよ。ほら、もっと腕を伸ばして」  上方から絶えず降り注ぐ水滴に、全身が濡れそぼつ。周囲に揺蕩(たゆた)う霧に、視界も覚束ない。  ふと気配を感じて真横に視線を向けると、岩壁に穿たれた穴から細長い躯をくねらせて、縞蛇百足(シマヘビムカデ)が這い出してくるのが見えた。鱗に覆われた胴から生えた無数の脚を蠢かせて岩肌に張り付き、長い舌を頻りに出し入れしてこちらを探っている。 「あっちへ行け!」  成体は大人数名分もの体長に育ち、頭部と尾部に猛毒を持つ危険な生物だが、目の前の個体はまだ幼生らしい。体長はフィオナの腕の長さにも満たなかった。子供の甲高い声を嫌ってか、岩壁伝いにスルスルと去っていく。  安堵の息を吐きながら、フィオナは思う。兄はなぜ、こんな場所を知っているのだろうか。そして、どうしてここに私を連れて来たのだろう。  近衛兵の目を盗んで屋敷を抜け出した時の高揚感はとっくの昔に消え失せ、渓谷を吹き抜ける湿った風に、冷えた四肢の震えが止まらない。一歩一歩と這い上ってきた崖をいまさら降りることも叶わず、必死の思いで伸ばす指先に硬い感触があった。そこには確かに、指を掛けるのに程良い溝が走っているらしい。  最後の気力を振り絞り、上半身を崖の上に引き上げようと足掻く。鋭利な岩肌に密着させた頬に擦り傷が出来るが、いまはほんの僅かにでも躯を反らす気にはなれなかった。息が無様に乱れ、両腕が痙攣する。無理かも知れない。もし、いま背後に落ちたら……  弱気になりかけたフィオナの背に、まだ少年の頼りなさを残す兄の腕が添えられた。それは慮外の力強さで彼女を支え、一気に崖上へと押し上げる。  熱を帯びた額が、水滴混じりの風に冷たい。懸命に登り詰めたその先には、子供数人がようやく並び立てる程の岩場が待っていた。彼女の後からよじ登ってきた兄に促され、崖下を怖々と覗く。並び立つ二人から少し離れた場所で、上方からの水流が一気に収束して下方へ注ぐ滝となり、霧に煙る遙か下方に碧色の淵が暗く沈んでいた。 「よく頑張ったね、フィオナ。さすが、僕の妹だ」 「こんな場所に来るなんて聞いてないわ、お兄様」 「先に言ったら、つまらないだろう?」 「それは場合によります」 「さて、暗くなる前に帰らないとね。ここから飛ぶよ」  さも当然と言い放つ彼の言葉に、耳を疑う。抗議する彼女の言葉は、滝音に飲まれて兄に届かなかったのだろうか。  戸惑うフィオナに向かって腕を伸ばし、額に張り付いた髪を指先で弄ぶ兄。フィオナの灰色の瞳とは異なる、母親譲りの(はしばみ)色の瞳を持つ兄の無邪気な薄笑みがそこにあった。 「僕が手本になる。いいかい、滝壺の真ん中を見て。あの辺りだけ水の色が濃いだろう。深いんだ。あそこを目指して飛び込むよ」 「ラーズ! そんなの無理よ!」  兄の相貌から、瞬時に色が消えた。白く震える唇が口早に呟く。 「……フィオナ、僕のことを呼び捨てにするな」 「ごめんなさい、お兄様」 「滝壺の真ん中以外は、水の色が淡い。水面のすぐ下に、大きくて尖った岩があるんだ。怪我をするから、気を付けて」  着水地点を少しでも誤れば「怪我をする」程度では済まないのではないのか。絶句する小さな彼女を置いて、岩場の反対側から助走をつけた兄が一気に崖下へと身を踊らせる。  そのまま一瞬、中空に留まるかに見えた少年の細身は、想像以上の勢いを得て下方へ落下していった。フィオナの視線の先でぐんぐん小さくなるそれは、中途で一回転する余裕すら見せながら、頭部を下にした姿勢で滝壺の中央を捉える。  大きな水柱を上げて淵を深く抉り、沈んでいく兄の躯。耳を澄ませても、聞こえるのは周囲を埋め尽くす水音だけ。いつまで経っても兄の躯が浮かんでこない。言い知れぬ不安に駆られたフィオナが、岩場の上で小さな膝を震わせる頃。  深い淵の不穏な碧色に、大理石の乳白色が朧に混ざる。ぷかりと水面に浮かび上がったそれは、微動だにしない兄の背だった。 「お兄様! お兄様……!」  気絶しているのだろうか。どこかを岩に打ち付けて、怪我でもしてしまったのか。それとも、まさか…… 呼び掛け続けるフィオナの声が絶叫に近付く頃、兄の背が不意にゆらゆらと震えたかと思うと、くるりと回転する。  淵の水音に混ざらず、耳障りに木霊する哄笑。  空を仰いで、兄は笑っていた。心底楽しいとばかりに頭蓋を目一杯に押し開いて、喉の奥から笑っていた。黙殺され続ける、フィオナの絶叫。  一頻り笑って満足したのか、崖上のフィオナに向かって腕を上げた兄、ラーズが言い放つ。 「さぁ! お前の番だよ。こっちへおいで、フィオナ!」 ――――――  地面を蹴って駆けるフィオナを、もう一人のフィオナが俯瞰している。  遠い夏の記憶だった。なぜ、私はあの日をいま反芻しているのだろう。愛用の片刃剣が、普段よりも僅かに腕に重い。  前線に立ち、危険に身を晒す機会も少なくなかった。だが、何のことはない。いつも側には参謀のダレル・ローガンや、フィオナと共に国境警備隊に編成された近衛兵達が控えていてくれたのだ。  蹴りつけた爪先が、下草の思わぬ柔らかさに埋もれる。  僅かに姿勢を崩したフィオナを狙って、再び飛来する短矢。沈んだ膝に力を込めて、それを横跳びに(かわ)す。耳元で鳴る風に、己の拍動の激しさが煩わしい。  私が何をしたと言うのだ。  視界の中央、一団の首領格と思しき男が馬をゆっくりと降りた。少年を乗せたままの戦闘を嫌ったのだろう。慣れない仕草で馬首を巡らせて下がっていく少年を庇う様に、その両脇で二人のヴェスコニア人が再び弓を引き絞る。  その厄介な光景にフィオナが舌打ちを漏らした刹那、弓を構える一人の真横の空間に黒い影が姿を結んだ。一閃、堅く乾いた音が鳴る。胴体の支えを失って後方に弾け飛ぶ、男の頭部。  調子外れな弦音が草原に鳴り、(つが)えられた矢があらぬ方向に放たれた。地面に落ちて跳ねる頭部をヴェスコニア人全員の視線が捉えた刹那、もう一人の弓兵の首がそれに続く。  状況への認識と動揺がヴェスコニア人達の間に広がるのに、数秒を要した。フィオナに向かって大股で距離を詰めてきていた男も、背後の異様な気配に意識を削がれている。その隙を捉えて一気に駆け寄り、中段から初撃を浴びせるフィオナ。  それを槍の柄で辛うじて受けた男が、食いしばった歯の間から呻きを漏らす。  地に降りたギケイはヴェスコニア人の一団を視野に捉えたまま、その場に腰を沈めている。軽く湾曲した細身の刀を鞘に納める彼の緩慢な所作が、交戦の中断を意味しないのは明らかだった。その場の誰もが息を殺して、指先一つ動かせずにいる。  多対一で押し切る目論見が外れたのか、フィオナと相対している男が口を開く。 「名乗りもせずにいきなり斬り掛かるとは。噂に違わず、女だてらに武張った振る舞いよ、フィオナ王女」 「これは我が名を知った上での事か」 「無論。聞けば、憎きアルタイル王家に連なる者が、碌な護衛も伴わずに我らの土地に潜んでいるという。この千載一遇の好機、逃す手はない」 「そちらの少年に我が名は伝えていない。その話、誰に聞いた」 「……我らヴェスコニアは誰の統治も頼らぬ」 「そうか。ところで、貴様のその槍、ムーア公国軍の装備によく似ているようだが」  言葉に詰まり、唇を醜く歪ませる男。  生臭い息を吐いて唸りながら、槍の柄で力任せにフィオナの剣を押し返す。彼女の脇腹を狙って、横薙ぎに払われる短槍。その穂先を見切り、地面に両手を突いてやり過ごしたフィオナが、後ろ回し蹴りを放つ。  上段の軌道で男の側頭部に叩き込まれる、フィオナの踵。たまらず取り落とした短槍を拾い上げようと地面に這い蹲る男の首筋に、フィオナの片刃剣がぴたりと添えられた。 「王族が、自国の民をその手に掛けるのか」 「アルタイル王国の統治には頼らない、とさっき聞こえたが」 「……あそこにいるのは、俺の息子だ」  フィオナが僅かに逸らした視線の先、斬り合う二人を馬上で息を詰めて睨む少年がいた。今朝方の無垢な印象と打って変わり、鼻先に皺を寄せて歯を剥き出しにした表情は、確かに足下の男に良く似た印象を与える。  躊躇の瞬隙を狙い澄ました男が、長靴に潜ませた短刀を引き抜いて身を翻す。利き腕の肩口に、鋼が疾る感触。脱力するフィオナの手から、片刃剣が離れていく。  ここぞとばかりに、男が決死の表情で一息に間合いを詰め、躯を密着させてくる。彼のめくり上がった鼻孔が撒き散らす血液が、フィオナの首筋に掛かって熱い。勝利の確信を叫びながら振り下ろされる、男の短刀。  フィオナの左掌底が、至近距離から男のこめかみに叩きつけられた。したたかに回し蹴りを受けたばかりの男が瞬時、意識を飛ばす。それで十分だった。  鮮血滴る肩口の傷を無視して、利き腕を背後に回すフィオナ。自らの血に(ぬめ)る掌で、腰部の隠し刀の柄を懸命に握る。鉤爪状に湾曲した刃を引き抜き様、至近距離で喘ぐ男の喉笛に突き立てた。  皮膚の内側に蠢く筋状の生肉が、五指に不快な抵抗を伝えてくる。男の血走った双眸がフィオナを捉え、短刀が再び落ちてくる。  なぜだ。私が何をしたと言うのだ。  お兄様、私は何もしていない!  フィオナの細い喉から迸る、叫喚の一声。  蒼穹に向かって振り抜かれた腕が、数瞬の後に降り注いだ鮮血の弧に濡れる。  誰しもが言葉を失って動けずにいる中、少年の絶叫だけが下草を震わせて草原を渡っていった。
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