追駆

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追駆

 夜が明けようとしている。  国境警備隊 参謀のダレル・ローガンは顎を伝う汗を拭う間も惜しんで手綱を操り、先導役のヴェスコニア人が駆る馬を追っていた。  彼に続くのは、過日の夜襲を辛うじて生き延びた数名の隊員。それぞれが跨がる馬は、ヴェスコニア人達の村から接収したこの地方の固有種。がっしりした骨格、低い重心で起伏激しい山道の行程を難なくこなしていく。  ムーア公国の隠密部隊によってフィオナ王女が拉致されて以降、不眠不休で決死の捜索を続けてきたダレルがようやく一縷の希望を掴んだのが、つい昨日のこと。食料と馬を求めてヴェスコニア人達の村に立ち寄ったところ、村の主だった者が村長の家に集って侃々諤々の言い争いをしていたのだ。  玄関先まで漏れ聞こえる言葉に耳を傾けるダレルに、状況が徐々に掴めてきた。村近くの洞窟で雨を凌ごうとした少年が、見慣れない二人連れと遭遇したらしい。身なりや特徴が、フィオナ王女とギケイに符合している。  議論が、フィオナ達を追って反王権派の一団が既に村を立った段に至り、ダレルは即断した。国境警備隊員数名と共に、その場に居合わせた村人達を制圧。人数分の馬を接収の上、案内役を立てさせて追跡の途に着いた。  山間部を抜けた一行の前に広がる、地平の彼方まで伸びる草原。払暁の微かな明かりに、下草が静かに揺れている。  突然、先頭のヴェスコニア人が片手を掲げて一行を制した。ダレル達が手綱を引くまでもなく、見知った人間の指図を解した馬達が歩みを止める。なだらかに下っていく山間部が広大な草原と交わる付近を指し示し、何かを口早に伝えようとするヴェスコニア人。  彼が示す方向に目を凝らすと、扇状に展開した十数騎のヴェスコニア人に向かって駆ける、一つの人影が見えた。しなやかに地を蹴る細身のシルエット。ダレルが教育係として幼少期から接してきたその姿形に向けて、馬上から複数の弓が引き絞られようとしている。 「姫様っ!」  反射的に拍車を入れたダレルが単騎、駆け出す。山道の起伏をこなしながら進まざるを得ない歩調がもどかしい。  眼下、短弓から放たれた矢を、フィオナが横跳びに(かわ)した。馬上で複数の弓兵が背中の矢筒に手を伸ばし、次の矢を(つが)える。  刹那、胸中に激情が吹き荒れた。ならぬ。其の人こそは、決して豊かではないながらも平和を護持してきた我が国の希望。腐敗と停滞から王宮を解き放ち、王政復興の礎を打ち立てる唯一の器……  否、それだけではない。生来、無垢な華やかさと無謬の知性を併せ持つ少女で、その存在は接する者全ての心に瑞々しい喜びをもたらした。ダレル自身も、身内にいつしか芽生えた抑え難き慈しみの念に戸惑いながら、戦場に生きた男の無骨さでそれを辛うじて秘して、臣従してきた。  それが人望を疎んだ実兄に遠ざけられ、可憐な(かんばせ)を歪ませたままにこんな場末で孤独に倒れるなど断じて……  だが、軍属として数多の戦場に立ってきた経験が、耳元で確信を囁く。ダレル、お前は届かない。敵味方問わず無数の人間が命を散らす瞬間を目にしてきた。若者を捨て駒におめおめ生き残った老骨に「猛将」を冠するとは、皮肉が辛辣に過ぎる。  お前は間に合わない。今回も、絶望的に……  体勢を崩したフィオナ目掛けて矢が放たれる刹那、馬上の弓兵の真横の空間が黒く滲み、それが人の姿を結ぶに先じて燐光が一閃した。首から上を失って仰け反る躯から、狙いを無くした矢が天に向けて解き放たれる。 「……ギケイ!」  それは王国の建国以前からアルタイル王家を支えてきたローガン一族に代々口伝で囁かれる()み名。歴史の転換点に暗躍し、貴血の魂魄(アルマ)(たか)(むさぼ)る禍々しき亡霊。  フィオナ以外の誰もが状況を理解出来ず呆然と立ち尽くす中、もう一つの首が胴体を離れた。忽然と現れた不出来な人型の噴水が、赤い水を撒き散らしながらゆっくりと落馬していく。  つい数秒前とは別種の、得体の知れぬ感情にダレルの顎が軋る。食い縛った歯間から、調子外れな呻き声が漏れた。  あの男が側に(はべ)るということは、姫様は……  ならぬ。それはフィオナが命を落とすよりも残酷な末路を辿ることを意味する。そんな凶行は、断じて許されぬ。  馬から飛び降りたダレルは、吹き上がる殺意のままに愛用の戦斧を握り締め、ギケイ目指して駆け出した。 ――――――  滝音を貫いて、兄の不自然に高揚した声が崖上のフィオナに届いた。 「さぁ! お前の番だよ。こっちへおいで、フィオナ!」  フィオナが高い所を苦手とすることを、兄は知っているはずなのに……  ごつごつとした岩棚の上、乳白色の足をにじらせて端に近付く。怖々と眼下を覗いても、どれくらいの高さなのか測れない。彼女の横から降り注ぐ滝が遙か下方で淵となって貯まり、深碧の淀みが口を開けている。  兄のラーズが、自らが着水した付近を指し示し、岸へと上がっていく。滝壺の中央、大人が腕を広げたくらいの径で黒々と沈む水面。あそこ以外は水深が浅く、大きく尖った岩があるとさっき言っていた。  背後を振り返る。岩棚の広さは、助走をつけるには余りに狭く見える。 「早くおいでよ、フィオナ! 僕はもう帰るぞ」 「そんな…… 待って、お兄様!」  崖下から吹き上げる風が、フィオナの躯から湿気と体温を奪っていく。肉付きの薄い四肢を見舞う、不規則な震え。いやだ。こんな山奥に一人残されたら、きっと誰も見つけてくれない。飛ぶのは怖い。だけど、お父様、お母様に会えなくなるのも怖い。とんでもなく怖い。  どちらの方が怖いのか、わからない。  でも、選ばなくてはならない……  それはきっと、フィオナが辿れる記憶の中で、最も古い選択の瞬間。  目蓋を閉じる。深呼吸。  三度目で、両親の姿が浮かんだ。  (すが)る。  遠ざかる、下方からの兄の声。  鼓膜が微かに痛み、澄み渡っていく。  頭上の梢に小鳥の囁きを聞いた。  岩棚が終わる処。飛べる。  あの向こうを、いまは忘れる。  岩棚の後端に立つ。  私は飛べる。  踏み切るまで、何歩だろう。  五歩。だめだ、そんなに距離はない。  小走りに、四歩目で岩棚の先端を蹴る。  そう、決めた。考えない、その先は。  蹴った。  一歩。  爪先に地面が固い。  二歩。  躯を前に傾けて。  三歩。  あぁ、もう止まれない。  四歩。  中空に手足を解き放った。  強烈な浮遊感に圧し上げられ、取り残されそうになる意識。  抵抗の叫声を絞り出すフィオナの視界に、引き攣ったラーズの相貌が矮小に映った。 ――――――  二つの絶叫が、鮮血混じりの大気を震わせている。  それは、かつて南方の帝国に対する防衛戦を指揮してきた「猛将ダレル・ローガン」にとって懐かしい、余りにも耳に馴染んだ音色。しかも、それらの内の一方は、前線を退いた彼が長年仕えてきた王女自身から発せられている。 「姫様が、人を……」  ダレル自身、かつて覚えのない戦慄が足下から這い上がってくる。  守る。そう誓った。  だが、実際には王宮内の卑賤な権謀に為す術もなく追いやられ、辿り着いた辺境で惨状に身を晒させている。精一杯尽くした結果とはいえ、受け入れ難い。致し方ないなどという弱音は断じて漏らさない一方で、老境に足を踏み入れた自身に忍び寄る限界も骨身で感じている。  しかし、ギケイ。貴様ならば。  幾度も人として肉を受けながら、人ならざるその身ならば。目の前のこの凄惨な情景をもっと早く、それも難なく回避できたのではないのか。 「ギケイ……!!」  だが、その猛りを込めた呼び掛けにまず反応したのは、ヴェスコニア人達だった。自分達の頭領格が倒れて間を置かず、背後から現れた別の闖入者に呆然と視線を振り向ける。  立ち尽くす彼らの向こうで、黒髪の痩躯が動いた。  つい先刻、自ら斬り捨てた弓兵の脇に膝を突くギケイ。  暫時の後に立ち上がった彼の手が握るのは、一張りの短弓。  手慣れた仕草で(つが)えられる矢。  ダレル目掛けておもむろに引き絞られた一矢が、刹那の弦音を草原に鳴り響かせた。
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