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看過
空を咬み千切らんばかりに打ち開かれた喉奥から、天上まで届けと叫びが昇っていく。
フィオナが胸を震わせて解き放ったその音色は、やがて嗚咽に飲まれていった。
「ギケイ……!!」
不意に遠くから耳に届く、耳に馴染んだ声。
その響きが孕む怒りに、フィオナの視線が引き寄せられる。驚きに立ち尽くすヴェスコニア人達の背後、そこには自らの身の丈よりも長い戦斧を掲げて駆けてくる、ダレル・ローガンの姿があった。フィオナが生きた殆どの時間を共にしてきたその髭面が、僅かな日数しか離れていなかったにも関わらず、彼女の感情を掻き乱す。
その胸中の熱量に意識を削がれていたせいか、反応が遅れた。
事切れた弓兵の脇に跪いたギケイが、拾い上げた短弓に矢を番える。流水の所作が引き絞る弓弦。鏃が見据える先を悟ったフィオナが、一瞬遅れて声を上げる。
「やめよ、二人とも!」
ギケイの手元を離れた矢が、追い風を得て尋常ならざる勢いで疾った。刹那に草原を裂いたそれはダレルの頬を掠め、その遙か後方に退いていた一頭の馬を刺し貫く。
眉間に矢を受けて、身を震わせながら崩れ落ちていく馬体。
その背から逃げ損ねたヴェスコニア人の少年がふるい落とされ、したたかに地面に身を打ち付けた。為す術なく痛みにのたうち、起き上がれずにいる彼に向かって、ギケイの静かな足音が距離を縮め始める。
「……よせ」
間近を駆け抜けていった、ただ一条の矢。
そこに込められた意志の苛烈さに身を強ばらせ、その場から動けないダレル。ゆったりとした足取りでその脇を抜けたギケイが、湾曲した細身の刃を鞘走りさせる。
遅れること数秒、駆けてきたフィオナが擦れ違いざまダレルに目配せだけを残し、ギケイと肩を並べて歩み始める。ヴェスコニア人の少年はいまだに身を起こせないまま、懸命に地面を蹴って後ずさろうと藻掻いていた。
少年を視野に捉えたまま、フィオナが呟く。
「どうしても、殺めるしかないのか」
「あの少年を生きて村に帰したせいで、死人が増えた」
「それは結果論に過ぎん」
「あの目を見ろ」
自身を間合いに捉えつつあるギケイを睨め上げる、少年の目。極度の興奮と激情に見開かれた目蓋の下に、二人を射殺さんばかりに痙攣する一双の眼球が赤い。
「お主は子供の眼前で、親を殺めた。あそこまで至った恨みは、もう手遅れだ。いまこの場で禍根を絶つ」
「……私が手を下す」
ギケイの肩を抑え、前に出るフィオナ。
少年が、いつの間にか拳に握り込んでいた小石を投げつけてくる。その軌跡を避けようともせず、胸に受けた。鞣し革の簡素な貫頭衣の下で、その衝撃の脆弱さが彼女の心中をさらに抉っていく。
鞘から抜き放った片刃剣を、仰向けになった少年の胸先に向けた。
「……お前達なんか、来なければ良かったんだ」
「なに?」
「お前達よりずっと昔から! このヴェスク山の中で、僕達は静かに暮らしてきたんだ。なにがアルタイル王国だよ。放っておいてくれ!」
「王国の統治は、この地にも豊かで安定した暮らしをもたらした。違うのか」
「それと引き替えに、お前達はぜんぶ持って行く! 自治州なんて名ばかりで、税を払えないと家畜や家を奪っていく。僕の兄ちゃんは兵役に取られて、帝国と戦って死んだ! 父ちゃんもお前に殺された!」
恐怖を凌駕した怨嗟が、少年の舌を滑らかにしていた。
口角泡を飛ばして食って掛かる歪んだ形相に耐え兼ね、片刃剣の切っ先で彼の胸骨を抑え付けるフィオナ。息を荒くした少年の胸が上下するにつれて、質素な上衣が裂け、滲みが赤く広がっていく。
「我が名はフィオナ・ガーウェン。アルタイル王国の王女である。ヴェスコニア人の少年よ、汝の名を申せ」
「……キリアン」
「キリアン。その名、我が記憶に刻もう」
誰一人として身じろぎできずにいる草原に、少年のしゃくり上げる嗚咽だけが聞こえる。フィオナの躯が前屈みになり、その掌底が刀の柄頭に添えられた。今朝方、生への強い執着を見せた少年の躯はいま、変わらぬ矮小さで大地に四肢を擲ち彼女を咎めている。
両肩で体重を傾けると、薄い胸と拮抗していた剣先が僅かに沈んでいく。
昨夜来、夥しい量の体液が赤黒くぶち撒けられた大地。下草を撫で抜けていく風までもが湿気を拾って滑り、返り血に汚れたフィオナの頬をさらに火照らせていく。
粘ついた微風を胸一杯に啜り、肺で濾過する。それを繰り返すこと、三度。
窄められた口唇が吐息に震え、彼女の喉が天上を白く仰いだ。
よろめきながら、フィオナが後ずさる。
「それがお主の選択なのか」
「ギケイ…… お前を落胆させて済まないが、私はこの程度の器らしい。どうしても、この少年を殺めるというのなら」
暁光の微かな温もりを背に、頬を緩めるフィオナ。
この場に不釣り合いな涼やかさが、居合わせた者全ての網膜に燦然たる影を落とす。
「私の首を刎ねてからにしろ」
間合いだった。ギケイにとっては造作もない。
「……先が思いやられる」
再び静寂に沈み始めた草原を、少年の叫び声が甲高く揺さぶる。
「おまえ、ぜったいゆるさない! ぜったいに…… ゆるさないからな!」
目の前で父親を殺した相手に、命を看過されようとしている。それは奪うのと同価に受け入れ難い冒涜だった。
だが、猛り狂う少年に応じる者など、誰一人としているはずがない。頃合いだ。馬上で気を削がれているヴェスコニア人達に向かって、ダレルが大きく一歩踏み出す。
「聞け、ヴェスコニアの民よ! 今日、この場における出来事はすべて、このダレル・ローガンが預かる!」
彼の野太い宣言に応じたのは、虚ろな眼差しだけ。長年に渡って軍を率いてきた直感が、ここは畳み掛ける時だと言っている。
「武器を捨てよ! そして、退け! 其の方共の馬は、我ら国境警備隊が接収する」
暫時の沈黙があった。
が、一人のヴェスコニア人が金縛りから解放された様にのろのろと馬を降り始めると、残りの者もそれに続く。一人の男が、沈黙しているギケイを窺いながら恐る恐る近寄ってきて、まだ喚き散らしている少年を引き擦り去っていった。
数刻後、国境警備隊 参謀のダレル・ローガンを先駆けとする一行は、ヴェスコニア自治州との州境に横たわる草原地帯を抜けた。途上の農村で馬を替えながら、一路王都を目指す。
フィオナはただ目の前に伸びる街道だけに意識を振り向け、沈黙の中を駆けていった。
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