序章

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序章

 茫漠たる静けさが、鼓膜に冷たい。  眼前には見渡す限りに青白く揺れる雲海。周囲に生命の気配は一切感じられないが、今更驚くこともない。こちらとしても見慣れた眺望だった。  ふと気配を感じて視線を巡らせると、其処にそれ(、、)があった。  白髪に長く縁取られた額、窪んだ眉の下に鋭く穿たれた眼孔、()けた頬が描く顎線に口唇のみが不釣り合いな鮮やかさで緋色を添える。支えも無しに中空に忽然と浮かぶ、老女の能面。原初のオレの記憶から抽出された写し身なのだろうが、どの様な姿を(まと)おうと、その本質に変わりはない。  (じゅう)にして零の気配を放つ、一切を知らずして全てを悟る者。無意識に鞘を求めた左手が空を掴む。自分が帯刀していないことに気付いて、思わず舌打ちを漏らす。  薄く開かれたままの老女の唇が、大仰な溜息を漏らす。 「こうして二人きりで話すのも久しいというのに、随分とつれないではないか」  こちらを(たしな)めるその口調には、むしろ楽しげな色が滲んでいる。 「約定に変わりはないだろうな」 「無論。(いにしえ)の約定に従い、此度も貴様の願いを叶えよう」  暫時、沈黙が降りる。俺が望むところを脳裏に描くと、やがてそれは夏の朝霧さながらに掻き消えていった。最後に見えたのは、ただ静かに草原に佇む少女の姿。それが、かくあらまほしと彼女が望んだ幻想なのだろう。 「……で、次は何をさせるつもりだ」 「ベテランは話が早くて、私も手間が省ける」 「アンタも一度くらい死の盃を味わってみたらどうだ、天秤(てんびん)の女神様よ」  袖に忍ばせた煙管(きせる)に手を伸ばそうとして、そもそも自分が和装でないことを知る。人差し指と中指を揃えて口許に近付けると、俺の意志を汲み取って紙巻き煙草が現れた。老女の能面に眼差しで謝意を伝えると、不可視の腕を鷹揚に振って返す気配がした。  地平線の果てまで雲海が揺蕩(たゆた)う空間で、一条の紫煙をくゆらせる。  この煙草という嗜好品は、吸い込む空気が澄んでいれば澄んでいる程に美味い。そういう意味で、この状況はなかなかの演出と言えるだろう。ふと、神にもこの味がわかるのだろうかと益体ない疑問が浮かんだ。  無為な思索に耽り始めたオレに、静かな声が厳かに告げる。 「それを吸い終わったら、また(しば)しの別れとなろう。汝に天秤の加護を」  不思議に耳に馴染んだ音の並び。これまでに幾度、この台詞を耳にしてきたのだろうか。降臨履歴(レコード)を探ろうとした俺の全身に微かな違和感が走り、周囲の景色が急激にその色を失っていく。受肉が始まったらしい。せっかちなことだ  足下に視線を向けると、実体を得つつある肉体が既に(くるぶし)まで雲海に沈み込んでいた。せめてもの抵抗に、口角を歪める。眼前に浮かぶ老女の能面に向けて指先を(はじ)くと、指間の煙草が回転しながら灯明の放物線を描く。  その行方を見届けられないことを残念に思いながら、急激に強まりつつある浮遊感に俺の躯は呑み込まれていった。
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