受肉

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受肉

 死とは感覚を通して来る印象や、我々を糸であやつる衝動や、心の迷いや肉への奉仕などの中止である。  原子ならば分散。統一ならば、消滅か若しくは移住。 「自省録」  マルクス・アウレリウス・アントニヌス ――――――  質量を得た躯がずぶりと雲海の層を抜け、風切り音が耳元で高く鳴り始める。  足下に視線を向けると、浅緑色の大地だった。既に地平線近くにある夕陽が今日最後の琥珀の威光で、なだらかな丘陵地帯を染めている。四肢を目一杯に広げて躯を大地と水平に傾けると、抵抗を強めた大気に落下の速度がやや低下する気がした。  斜陽の茜色に縁を染めた雲が、眼前に迫る。瞼を閉じた刹那、湿った冷気に肌が凍えた。ここまでの高度になると落下しているという実感を得にくいが、いまの俺は間違いなく自由落下中の身。地上に到達するまでには、まだしばらく掛かるだろう。今のうちに、周囲の地形を観察しておく。  見渡す限りの視界に、おそらく人家は存在しない。これから落下するであろう付近に視線を凝らすと、灰色の点が不規則に散りばめられている。上空から俯瞰しているのでその大きさはいまいちピンと来ないが、遺跡か何かだろうか。  目を凝らしていると、落下経路に黒い染みの様な物が浮かんでいることに気付く。(くさび)型のそれが翼を広げた鳥の背らしいとわかるまで、数秒を要した。草原を狩り場とする猛禽の類か。捕食者の余裕か、ゆったりと夕空を旋回している。だが、徐々に近付くにつれて、その偉容が明らかになってきた。大きい。その背に成人が数人またがれる程に、そのシルエットは巨大だった。  ……マズい。このままでは衝突してしまう。  天秤の女神の加護を受けているとは言え、この落下速度でアレと衝突して無事でいられると考える程、俺も呑気ではない。焦りながら身を捩って、軌道修正を試みる。 「我こそは空の王者」と言わんばかりに時折、鷹揚に翼をはためかせながら地上を睥睨する大型猛禽。一方、こちらは天意を受けて受肉しようとも地を這う者であることに変わりはなく、慣れない動作で足掻く今の俺は地上から見ればさぞ滑稽に映ることだろう。  数秒後、身を捩り、めいいっぱい広げた四肢を駆使して猛禽の右翼後方を辛うじて抜けることに成功した。上方からの正体不明の落下物によって気流を大いに乱された猛禽が、情けない鳴き声を上げる。地表に背を向けて上空を仰ぐ姿勢を取った俺は、その慌て振りに思わず口許が緩むのを自覚した。  さて、そろそろ地表に到達する頃合いか。  宵闇に染まりつつある見知らぬ空に両手を広げ、その時を待つ。だが、落下の勢いは収束する気配を見せず、背後に大地の気配が近付きつつあるのを感じる。 「おいおい、高度を測り間違えてるんじゃないだろうな。受肉して即座に墜落死なんて前代未聞だぞ、女神様よ……」  途端、視界に幾筋もの光線が走ったかと思うと、幾何学的な文様が編まれて檻状に展開した。安堵の溜め息を吐こうとした瞬間、全身に強烈な衝撃が走り、夕空が黒く噴き上げる土砂に覆われる。  耳を(ろう)する、落鳴が如き轟音。何が起こったのか理解する余裕もないまま、俺の意識も黒く閉ざされていった。
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