38-1.塹壕戦

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38-1.塹壕戦

 現代の戦争で生きている敵を目にすることは希だ。何故なら、敵から視認された途端に銃弾や砲弾が飛んでくるからだ。  だから、敵も味方も迷彩が施された服を着て、しゃがむか伏せるかの姿勢をとるか、物陰に身を隠す。市街戦のように、建物やその残骸が視線を遮るような地形で無い限り、敵味方が近距離で鉢合わせする状況が起きることは滅多にない。  また、砲弾やロケットなどの大型火器での攻撃を受けても、できるだけ被害を減らす目的で、兵士たちは一定以上の間隔を開けていることが多い。つまり、きらびやかで目立つ鎧も無ければ、密集した兵士の集団もいない現代戦は絵にならない。そして、この現代戦から影響を受けている魔界の戦争も同様だ。  〝魔界日本〟の棟梁である地頭方志光は、池袋ゲートのある洞窟から少し離れた場所で邪素の雨に打たれながら、双眼鏡を覗き込んで戦況の確認に勤しんでいた。彼の隣には、宗教上の妻で親衛隊を取り仕切る見附麗奈がいて、無線機から伝わってくる部下の報告に対して指示を下している。  しかし、彼女たちから伝わる情報を元にして目を皿のようにしても、何が起きているのかを明確に認識することは難しい。  魔界は真っ暗で太陽も月の明かりも無い。周囲を照らしてくれる液化した邪素は、柱状節理を想起させる規則的な文様のある地面に落ちて溜まると天然のライトになるが、上から下に向かって輝くので、せいぜい相手の脚ぐらいしか視認出来ないし、黒地に青の不規則な模様が入った魔界迷彩を施した衣服まで着られてしまうと、より視認が難しくなる。  魔界日本において情報収集を担当する悪魔であるアニェス・ソレルの報告によれば、ゲート奪取後の作戦も順調に進行しているそうだ。池袋の地下から魔界に侵入した親衛隊隊員の一部が、湯崎武男の部隊と対峙しているホワイトプライドユニオンの軍勢を背面から襲撃することで、敵に二正面作戦を強いているのだ。  もちろん、白人至上主義の悪魔たちも手をこまねいているわけでは無く、池袋ゲートから侵入してきた志光たちに反撃は試みている。彼らは事前にゲートを奪取された時のことを想定しており、予め洞窟付近に狙いを付けていた迫撃砲で正確な射撃を行った。  しかし、攻撃は大工沢美奈子が率いる黒鍬組が防護壁を作った後に行われたために、その効果はちょっとした嫌がらせ程度で終わってしまった。魔界の海を渡って上陸してきた魔界日本の部隊と水際で戦闘中だった白誇連合の悪魔たちに、洞窟から抜け出した親衛隊が襲いかかった段階で、その砲撃もばったりと止んだ。  親衛隊のメンバーが敵の拠点になだれ込んだところで、魔界日本側も砲撃を最小限に留めたため、今の戦場では大きな爆発が起きない。だから、遠くから見ているだけでは、何がどうなっているのかがさっぱり解らない。  もしも、これがRPGであれば、中世風だか近世風だかの巨大な建物が目の前に控えていて、そこにボスを倒すために乗り込んでいくようなシチュエーションなのだが、残念ながら池袋ゲートにあるのは切妻屋根を備えた一階建てのプレハブ小屋が大小合わせて数十棟と、規模は大きいけれどもやはり平屋の集会場、そしてそれらの建築物よりもずっと頑丈に造られている邪素製造工場があるだけだ。  魔界日本が、大塚ゲートや麻布ゲートのように、この地域を重視したことは一度も無い。年中人通りがある池袋駅のすぐ側に出入り口が一ヶ所あるだけなので、大規模な工事が不可能だからだ。  先代の棟梁である地頭方一郎は、ここに簡易宿泊所と邪素の精製工場を設けただけで、それ以上の投資はしなかった。ただし、この施設は悪魔たちの〝商売〟と密接な関係がある。  悪魔は現実世界で、その存在を否定されている。少なくとも、公的な機関が悪魔の実在を認めたことは無い。  また、本人たちも存在が公になることを望んでいなかったため、ギャングや暴力団のように、現実世界において非合法なやり方で悪魔が稼ごうとすると、〝名前〟を利用するのが難しい。たとえば、ある有名な暴力団に所属している組員が、その組の〝名前〟を出すだけで相手を威嚇することは可能だが、地頭方志光が「僕は魔界日本の棟梁です」と言っても、人間が彼の相手をしてくれることはまず無いどころか、馬鹿にされるのが関の山だ。  そこで、悪魔たちは犯罪者よりも腕力に頼りがちになる。組織を背景にした恫喝ができないので、そうならざるを得ないのだ。また、厄介なことに彼らにはそれだけの物理的な力がある。    だが、そのために必要なのは邪素だ。邪素が無ければ、悪魔は超常的な力を発揮出来ない。  現実世界に実体化した邪素を持ってくるには、ゲートの存在が必要不可欠だ。そして、ゲートの所有権があるのは悪魔の棟梁たちだ。  彼らに臣従する悪魔たちはゲートの往来を自由に出来る。あるいは、そのゲートを通って運ばれてきた邪素を使用することが可能だ。また、そうで無ければ悪魔たちが棟梁と主従関係を結ぶ利点がない。  しかし、魔界の棟梁に臣従しない悪魔たちはどうだろうか? もしも、彼らが魔界の支配層と敵対していない場合、金品を支払えば邪素や魔界での居住を提供するというサービスを受けられる。それは、自由に生きたい悪魔にとっても、少しでも領土の維持費が欲しい魔界の棟梁たちにとっても、お互いにメリットがある慣習だ。  池袋ゲートは、そうした「魔界日本に臣従しないが、現実世界において超常的な力を発揮したい悪魔たちに邪素を供給する場所」の一つだった。麻布にゲートがある〝虚栄国〟との違いは、このサービスを受けに来る悪魔たちの懐具合で、こちらは低所得者向けだ。  だから、魔界日本の上層部は池袋ゲートからの高額な収入を期待していなかったし、先代の一郎に至っては己に従わない同胞に対する一種の施しという認識だったようだ。従って、ホワイトプライドユニオンがこの場所を占領して白人至上主義的なコメントをがなり立てるまで、ここは政治的にも重要な場所では無かった。  それが、今や悪魔同士が殺し合い、勝った方のイデオロギーなり主張なりが正しいことを証明する場所になっている。とんでもない出世だ。
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