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どれだけ大きな悲しみも通り過ぎればいずれ忘れ去られるように、どれだけ大きな事件も通り過ぎてしまえばいずれマスメディアも取り上げることはなくなり、人の記憶から薄れていく。
それでも、今回の事件が今もメディアを騒がせているのは被害者が定期的に出ているからだろう。殺されたのは最初の報道から5人、ハイスピードで人は死んでいく。うちの学校でも女子生徒は何人か登校しなくなったやつがいる。
ネットではこの近隣の公園だったり、現場だったりの画像が乱立していて
この近くのヤクザ事務所がかかわっているだとか、昔は被差別民の自治体だったとか、このあたりの中学生の名前が犯人候補として出回っていたり阿鼻驚嘆としている。
そうしたネットの匿名性の身勝手な情報の錯乱と、面白半分で他人のプライバシーを晒す性質についてマスメディアに出る専門家は声をそろえて警鐘を鳴らしていたが、マスメディアも面白半分に事件を煽りアンケートと称してスカズカと現れては身勝手に他人のプライバシーを根掘り葉掘り高圧的にいじろうとしている。
結局人は他人の不幸が面白いのかもしれない。こんな手垢だらけのワードを僕は今ようやく実感した。不幸がおもしろくてたまらないマスコミを筆頭とするやじ馬が近所に集まるこの現状に僕も十分に慣れていた。
「じゃあ上がっていって」
僕らはあれからずっと一緒に登下校をしていた。それだけではなくこのように家の中に誘われることもあった。いや、最近では送った後はこうして必ず家の中に誘われていた。別にそれ以上どうするわけでもなく話をするだけではあるが。しかし最近はそれだけではない。
一番最初に麦茶を飲んだあの殺風景な部屋で今日も二人で座り話をしていたら
不意にドアが開いた。
「お、高校生か」
「あ、こんにちは」
その声がした方へ向くと今回は男だった。とりあえず会釈すると岡本も同じように会釈する。
「はいはい、邪魔しないのほら、いくよ!」
今度は高い声だ。お兄さんが、その男の背中をぐいぐいと押してフレーム外へと押し出していく。邪魔?とはどういうことだ、そう思っているとお兄さんが閉まるドアの隙間からウィンクをしだした。
それが一瞬わからなくて、分かった途端に 顔が真っ赤になるような気がした。いや、別に俺と岡本はそういう関係じゃないし!!
そう考えながらチラと岡本の方を見ると首を傾け、キョトンとして僕をみつめていた。ああ良かった、聞こえていなかったんだろう。
少しほっとしたが少し気まずい空気が流れていることを僕は察してしまい、急になんだか居心地が悪くなってしまった。
目線を反らしていたのだがそろりと顔をあげるとなぜかまだ岡本は僕の方をじっと見つめていたからさらに僕は狼狽した。
「何?どうした?今は何の時間!?」
何故ずっと僕の方を見つめているのか意味がわからないので僕は、この状況から逃げようと思い話題を探した。
ふと、目線を反らすと漫画が無造作に広げておいてあった。白い本の端に”幸せな生活”と黒い字で小さく書いてあり、そのデザインが漫画と呼ぶには少し異質であることはわかった。
”幸せな生活”、岡本の兄が書いたという漫画。
今、ネット掲示板でも流行っている。でも内容はあってないようなもので。
絵のタッチは子供向けの絵本のようなのんびりとした画風で可愛らしい少年が主人公だ。
彼は親から凄惨な虐待をされていて毎日酷い目にあっていた。
彼はそれでも心は優しく、虫や小動物をいつも助けていた。
そんなある日、彼の前に現れたのはカマキリの顔をした人間。
「なんでも願いを叶えてやろう」というカマキリの言葉に、
彼は「幸せな生活がほしい」と答えた。
その翌日、彼の家にカマキリは両親の首を持ってきた。
彼は幸せそうではなかった。幸せにならなかった。
カマキリは困惑し、
彼を害するような人間を片っ端から殺すようになった。
一言では表せないような無残な殺し方を。
悪徳非道な人間や人畜無害の人間も関係なく。
さまざまな方法で殺害するだけの、悪趣味な漫画。
「最近の若い子は、こんな漫画があるから犯罪が起きるようになる!」
といった批判は昭和に起きている凶悪な少年犯罪の比率が今よりも十分上回っていることからかき消されていった。
僕はこういう作品が好きにはなれない。というか嫌いである。ただ、なぜ嫌いなのかまだ言葉にできない。
テレビの文化人が「戦争は悲惨だ!やめるべきだ!」とのたまった口で戦国時代の武将の城の攻め方や戦いなどを嬉しそうに褒めたたえているようなそんな何らかの矛盾染みたものを感じる。
お前ら人間は口先だけで戦争反対などと唱えていても遺伝子レベルで結局は人の死を望んでいるんだぞと、偽善者であることを暗に突き付けられているような不快感を覚えている。
人の死を安易に考えるような作品を書くような人には極力近づきたくない。
それが岡本の兄であるということが今になって少しショックである。
「三好、どうしたの?」
「えっ・・・・いや」
僕は我に返る。気が付けばずっと岡本はずっと僕を見つめていた。
僕は幸せな生活を手に取ってぼーっとしていたから、気にしてくれたのかもしれない。
「その漫画、好き?」
「え?いや・・・・」
岡本の言葉に僕は詰まった。この時の僕は何か適当なことを言って岡本の機嫌を取っていれば良かったのだけれど、それがどうもなぜか不誠実のように思えた。だからか正直な言葉が僕の口から出てきた。
「正直、こういう漫画は好きじゃないかな・・」
こんな言葉が口から出てきたがもう遅かった。僕は発してからはっとした。
「そっか・・」
心なしか少し悲しそうな声が返ってきた。それはそうか岡本の兄を批判するような言葉だ。急にこの場所にいることに気まずさを覚えて、目の前の岡本の顔を見るのもなんだか怖くなった。
「でも僕は兄ちゃんが好きだから」
そんな呟いた声が聞こえた。その言葉を聞いて僕はなぜだかわからないけど胸がズキンと痛んだ。それは恋のアレのような甘酸っぱい言葉で説明できるようなものではなく僕も理由はわからない。ただ何かこれから起きることへの予感、前兆であったのではないかとこの時の僕は思いもしなかった。ただたんに否定の言葉としか思えなかった。
少しの間の沈黙。切り出す言葉を考えていた。ただ単に二人が沈黙しているだけという空間でしかないのだがどうも居心地が悪い
「やぁ、やってる?」
お兄さんがドアから顔を出した。僕は一瞬どきっとしたけど、そんな僕の心境は伝わってなかったみたいだ。
「兄さん、さっきの友達は?」
「ん?もういないよ」
岡本の言葉にお兄さんはそう返した。その時はまだそこまで違和感を覚えなかった。気まずい空間だったのでちょうど助かったとも思った。
あそこで会話が止まった状態だったから、さてこれから何を話そうかなどと考えていると、
「ねぇユウ。この子借りていい?」
「え゛」
一瞬思考が停止した。 この子借りていい?とはこの子とはだれ?といってももう僕しかいない。いや正直ちょっとこのなんか変な空気になったこの場所から離れることができるのは嬉しいが、ただ僕はこのお兄さんをどうも信用ができなかった。
「・・・」
岡本の表情はみえない。僕はなんともいえない、行っていいのかダメなのかいやそもそも自分の意志で行けばいいのだが。
「まあまあすぐ終わるから」
お兄さんは僕の手をぎゅっとつかむと、僕や岡本が何かを言う前に「さぁ行こう」と力づくで僕を連れ出した。女の人のような細い手でありながら、僕は咄嗟に足をふんばらないといけないほどすごい力がかかった。やっぱ男の人なんだなぁと思ったのと、強引なこの感じがやはり好きにはなれなくて
岡本の表情を見ると、無表情にも言えるがなんだか僕は放っておけないような気持ちになった。「行かないで」そう言っているような気がしてたまらないのだ。ただ、これは僕の妄想でしかないし、すごい力によって僕はあっという間にこの場から連れ去られていった。
「自分で歩きます・・ちょっと・・・」
早足のお兄さんに手を引っ張られ、その早足で躓きそうになりながら僕は苦情を告げた。僕からは前を歩くお兄さんの顔はみえない。
「あぁ、悪いね」
僕の言葉に気付いたお兄さんは僕の手をぱっと離すとひらひらと両手を挙げた。 その表情は、まるで咲いたばかりの花のように綺麗で、そして岡本の兄弟ということもあり面影が十分すぎるほどわかる。
岡本が陽の方角へと進み一皮も二皮も三皮もむけ、身だしなみやお洒落に目覚めるようになるとこのお兄さんのようになるのではないかと思う。
「君、僕のこと嫌いだろ?」
お兄さんはそんな笑顔でこう言い放った。
「・・・っ」
突然僕の心をえぐりとってきた。唐突な攻撃に僕は言葉を紡ぐことができず、わかりやすく動揺してしまった。何を言えばいいのかはいといえば良いのかいいえと言えばいいのか
「しかも、なぜ嫌いかといわれると理由はわからないとみた」
お兄さんはさらに追撃をしてきた。また図星だった。
別に僕はこの人に何か言われた訳ではない。そりゃあ僕の嫌な作品を書いてる作者さんであるから好きではないのだが、本当の作者かどうかも分からないし。ただなんだが嫌な予感というか身体が警告するのだ。この人に近づくなという、言ってしまえばただの勘だ。
「別にいいんだ、君が僕を嫌いでも。でも弟と仲良くしてくれてるってだけで僕は君が嫌いではないし、君が悪い奴じゃないってことはわかる」
「ありがとうね」
お兄さんは、僕に言った。この時お兄さんは嘘は言っていないように思える。
これはただの勘だ。この笑顔をみると世の男も女も一瞬で屈服するような笑顔をしている、しかし嘘は言っていないが本当のことも言っていないような白々しさがのっぺりと貼りついていて僕にとっては不気味だ。
兄弟でありながら岡本とは全く違う。
「僕になんの用事ですか?」
看破されているのなら僕は無理に見繕うことはせずに嫌悪感をありありとだして対応した。
「そうそう、それで良いよ 猫を被られるとこっちも調子が狂う」
お兄さんは満足したように笑った。僕が彼に悪印象を抱いていることを感づいているしそれを気にもとめていないようだ。途中で戻ることも考えていたが、岡本ともちょっと気まずい空気をつくっていたので戻るのもなんとなく後ろめたかった。
まるで学校を思い出すような廊下、大きな家だと思った。
各ドアにはA~Eのアルファベッドが打ち付けられていて、装飾品もない無機質なつくりとなっていてぎょっとした。
「変な家って思った?」
「いや、まぁでもお兄さんの趣味だろうなって思いはしました」
「あははハッキリ言うね」
1階が生活感のある雰囲気だったため、階段を上るだけでこうも違うものなのか、本当に同じ家なのかと思ってしまった。
窓からみると、付近には森が広がりその先には街が見える。馴染みあるイオンやホームセンターを上の位置から眺めるのは斬新でここは山なのだと再認識した。こんな山の上にどうして家が建っているのだろうか。
「入ってきて」
お兄さんは、Bと書かれた部屋に入るので僕も同じように入る。
雑多な部屋だった。まるで高校の美術準備室のようで、何に使うかわからないガラクタが置いてある。ただただだだ広く作業室と言ったような場所で生活感は全くない。壁一面に塗り絵の跡があり、まさしく芸術家の部屋といった感じだ。物だらけで生活感のあったようなもんじゃない。並んだ書籍と銀色の机、卓上には写真立てと二台のパソコン。アンバランスだ。
「僕の仕事は何かあいつから聞いてるのかな?」
「お兄さんの仕事は漫画家だと岡本からきいています」
「僕のことはヒロくんでいいよ、少年」
「お兄さんは漫画家だと聞いてます」
「ヒロくんでって言ってるのになぁ、いやぁそれにしてもユウはそこまで友人と話するようになったのか。関心関心」
お兄さんはカラカラと笑った。愉快だから笑ったではなく、笑うべきところだから笑ったといわんばかりの不気味な笑いにしか思えない。僕はどうしてかこの人に好印象を抱けなかった。
「でもね、本職は違うんだ」
「本職?」
「ああ、僕の本職はアートディレクターさ」
「アートディレクター?」
お兄さんはそのまま机まで行き、椅子に座った。ぎしっと軋む音。こんな綺麗な人でも体重というものはあるんだなぁとバカみたいなことを考えた。
自分ひとり椅子に座ったお兄さんは立ったままの僕を構いもせずに、机の中から次々と物を取り出した。
「写真を撮ってペイントソフトで加工したり絵を書いたりするの。本の表紙やCDのジャケットとかを細々と書いていたんだけどあまり売れなくてね。
別にそれでも良かったんだけど、趣味の一環で描いてた漫画がどうも大当たりしたみたいで。おかげで仕事も次々ともらうようになったんだ。」
そう言いながらお兄さんは机の中からは漫画で描くような道具や恐らく原稿やら爪切りや妙なコードなど次々と出てきた。部屋とは裏腹に机の中は全く整理できていないようだ。
お兄さんがアートディレクターだだの漫画が大当たりだの言っているようだがしかし僕はそんなことはどうでも良かった。さきほど変な雰囲気になったまま岡本と離れてしまったことがどうも気がかりだから。早く切り上げたかった。
「あの、どうして僕は呼ばれたんですか?」
「ん~先に説明するのも難しくて、僕の漫画でも読んでてよ。幸せな生活っていう漫画、結構有名なんだよ」
お兄さんは僕を振り向きもせず、目の前の本棚を指さした。確かに幸せな生活の背表紙が並んでいた。何かに対して抱いていた僕のもやもやしていたものがもう胸までこみあげてきて爆発してしまいそうだった。
「いえ、僕はこの漫画はあまり好きではないので読まないです。ただ人を残虐に殺すだけの漫画の何が面白いのか理解できませんから」
言った後ですぐ胸がバクバクした。思ってることをそのまま言うと定型文みたいになってしまうんだなと感じて相手の反応を見る。
「ふ~ん」
で流された。僕の反応など何の興味もないかのような、大人の余裕なのだろうか。急に僕は恥ずかしさがこみあげてきてかっと顔が熱くなってきた。
というかこれは一体何の時間なんだろう、僕はなぜここで苦手な人種と二人きりで恥をさらさなくてはいけないのだろう。と自問していると
「あった」
とお兄さんは声をあげると机の横にある黒い金庫に向かった。そして金庫の上にどかっと座りこむと今度は目の前の本棚へ手を突っ込んだ。この人の恐らく悪いであろう性格を知らなければ僕はもっと好意的な反応をするかもしれなかった。
生殖本能で人が人を好きになるのと同じように
僕がこの人を嫌いな理由を説明できないのは恐らくこれも生存本能か何かではないのだろうかと思い始めた。何か言葉では説明できないおぞましいものを僕はこの人に感じている。
ぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃ 本棚の棚と棚の間が切れ目となるようにゆっくりと両横へ開いていった。鈍い音を立てて。
その中もまた棚のようになっていた。しかし違うのはそこには本というよりかは紙の束、そしてそれが札束だと僕が理解するのも時間はかからなかった。
テレビでしか見たことのないような大量の札束がずらっと並んでいて
「え・・・」
お兄さんはその札束をがっとつかみとると、僕の所まで歩み寄り
「これ、あげる」
と僕へ渡そうとしてきたので僕は咄嗟に両手でそれを受け取った。
「こ・・・これは・・・・なんですか・・?」
手元にあるのはすべて一万円札、それも束のものが3つ 300万円 何がなんだかわからない しかし300万円で買えるものを瞬時で頭の中で計算した。
チョコレートが2万枚買えるなとバカみたいな計算式が脳に浮かんですぐに消えた。
「少ない?もっとあげよっか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて・・このお金はなんですか・・・」
「ああ、手切れ金だよ」
「え・・・・・?」
流ちょうにお兄さんが話をした。その内容がひっかかった。
「手切れ金・・?」
「うん、君ならわかるよね。僕が言いたいこと」
お兄さんは笑顔で言った。言いたいことはわかるが納得するかどうかは別の話である。
「岡本と距離を置けっていうことですよね」
「うん、察しが良いね えらいえらい」
塾で子供を褒める先生のような口ぶりでお兄さんは言った。癪に障るというのはこの状況の事を言うんだろうな。
「理由を聞かせてもらっても良いですか」
なるべく冷静であることをアピールしながら聞いてみた。怒りは別にわかなかった。けどこの感情はなんだかはわからない嫉妬とか憎悪とか既存の感情ではなくどっちつかずでただ心の中を満たしている煙のようでそれが思考を邪魔している。
お兄さんは僕の言葉ににっこりと笑うと後ろを振り返った。
「おにいさ」
僕の言葉を遮るようにお兄さんは両手をひろげ唐突に
「今、世間を賑わしている殺人鬼が僕の弟だったらどうする?」
と向きかえった。
「はい?」
斜め上の発言で一瞬僕は言葉を失う。
「ほらね、戸惑うだろう?」
お兄さんは得意げに僕に言ったので僕はムッとして
「そりゃ戸惑うでしょうそんな意味のわからないことを言われたら」
と半ば投げやり気味に返すとお兄さんはますます機嫌を良くしたのかにやっと笑いながら
「信じてないの?」
と聞いてきた。
「信じていないですよ、どっちかというと僕はお兄さんの方が人殺しのように思います」
ここまで来たらもう遠慮はいらないだろう。僕はこの目の前の人間に対して嫌悪を真っすぐに抱いていた。この人自体には敵意は見えない、それでもかかわってはいけないという警告音が身体中から鳴り響いている。
空気が変わったような気がした。ピリッと一瞬空間が遮断されたような
パンドラの箱。世の中には開いてはいけない蓋がたくさんあり、
この蓋を開いてしまったかのような ぞっとした。
前をみるのがこわかった。目の前の男がどんな表情をしているのか確かめることが怖い。
「ひどいなぁ」
心をぐさっとさすような声質だ。ゆっくりと前を向き変えるとお兄さんは笑っていた。いつものような仮面染みた笑顔ではなく 満面の笑み。
純粋な笑み
お兄さんは札束を手に持ちながら僕の方へゆっくりと歩いてくる。
札束に袋、いやこの袋は本当に札束か、もしかしたらナイフか?
僕は正当な判断ができなくなった。この広い部屋、後ろにはドア。出口。
早く逃げなきゃ、あれ?そういえばドアってどうやったらあけるんだっけ
お兄さんはゆっくりと迫ってくる。
逃げなきゃ逃げなきゃ ドアをあけて、でも開けてる間に刺されたらどうしようか。僕はパニックになった。
「怖がらなくて良いよ、まだ君には何もしない」
優しい声が聞こえた。それでも僕は後ろへ振り返ることができなかったのは本能的なものなのかもしれない。
腰が抜けた。僕はなぜかわからないけど
ここで追いつかれたら、死んでしまうと全身で理解してしまったのだ。
腰が抜けながら身体から叫び声が出た。とにかくここで逃げないと
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
うまく走れてるかわからない、まるで学校のような長い長い廊下を恐らく狂乱じみながら走った。後ろを振り返る余裕なんかない、階段を下りる、軋む木の板、僕は前に何があるかなんて何も見えていなかった。ただただ必死だった。
入り口を、とにかく逃げないと、としか思っていなかった。
「三好、どうしたの?」
岡本がいた。 怪訝な表情の岡本がいた。僕はそこではっとした。
さっきまでの恐怖心がまるで嘘のように消えたのだ、恐怖がまるでかき消されたかのような。でも、ここで立ち止まるつもりはなかった。
本能を丸々信じこむつもりはないが、自分の意志よりも早く足が動くとはそこまで岡本のお兄さんに本能が恐怖を覚えたのだ。
「岡本、逃げよう」
僕は考えるより先に口と手が出た。岡本の手をつかんでからはっと思ったがそれを訂正する余裕はない。というかなぜ逃げなければならないかという理由すら思いつかない。
だって何もないんだから。ただ、漠然と死の恐怖を覚えたからというしかない。そんなことを言われても岡本も困るだろう。ただ岡本を見ると僕が想像していた顔とは違っていた。
「ダメ、だよ」
笑顔だった。それは諦めにも似て悲しみのような笑顔だった。
僕はその岡本の顔をみて察してしまった、岡本の腕が僕の手から離れる。
「僕も、好きじゃないよ」
「でも、兄ちゃんは好きなんだ」
僕はもうなんとも言えないでいた。
ここまで明確にわかってしまったのだ。僕は岡本にとっては何でもないことを。心の何かが壊れていくような気がした。僕はポケットに入っていた札束
「三好君、ありがとうね、バイバイ」
いつの間にかお兄さんは岡本の隣にいた。もう逃げ出したいという気持ちはなかった。なかったが、何か失ったようなそんな気持ちだったから、帰路はほとんど覚えていなかった。
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