【前編】

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「あ、この菓子! 美味そうなんで、いただきます!」  思い出したように言いながら、話題を逸らすべく、置いた茶碗のすぐ横にある焼き菓子に手を伸ばそうとして……しかし、その手は空中で止まる。 「――隠すことはないだろう」  そんな言葉が、頭の向こうから聞こえてきたから―――。 「そこまで自分の出自を隠したいのか?」  どくん、どくん、と……心臓が、大きく波打つ。  どうしても視線が、上げられない。  固まるしか出来ない俺の身体を、副団長の低い声が貫く。 「おまえこそ名門家の一員だろうに。エイス・セルマ――いや、エイシェル・セルマ・シュバルティエ」 「――人違いですっっ!!」  叫んで食い気味にそれを投げ付けるや、途端に俺は立ち上がる。  そのまま踵を返し、全力で部屋から逃げ出そうとした。  しかし、その腕が掴まれ、引き戻される。  前方に向けていた全ての勢いが、そのまま反動で背後に働く。  身体が後ろに傾いだ――と思ったら、背中を何か大きなものに受け止められたのを感じた。  気が付けば俺の身体は、副団長の腕の中にすっぽりと包まれてしまっていた。 「まったく……本当に落ち着きがないな、おまえは」  タメ息と共に、そんな声が耳の後ろから聞こえてくる。  しかし、俺を抱えているその両腕は、一向に緩む気配が無い。 「人の話くらい、黙って最後まで聞けないのか」 「――聞きたくありません」 「セルマ……」 「放してください」 「だから……」 「いいから、放せ!」  思わず相手が上官だということもフッ飛び、苛々に任せて、つい怒鳴り付けてしまった。 「だめだ。放したら、また逃げる気だろう?」  しかし平然と、そんな言葉が返される。腕は相変わらず緩めてくれないままに。  もう、どうすればいいのかわからなくなって、我知らず唇を噛み締めていた。
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