零(九)、 プロローグ ―涙の理由―

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道場のちょうど中央に弓を構えている彼女の名は―― 真野(まの)あずみ。 黒袴の彼女は矢を番(つが)えた姿勢のまま、じっと的を見つめている。 僕はゆっくりと矢取道(やとりみち)の脇を歩き、道場のほうへ近づいた。 あずみの道衣が陽光に照らされてまぶしい。 そのせいか、小柄で華奢な彼女が神秘的に見えた。 女神みたい――なんてたとえは言いすぎだろうか。 あずみは的から顔を戻すと、ゆがけを弦(つる)に懸けた。 いつもは大きな瞳で見上げてくる子リスのようだったが、今日は違う。 真剣な眼差しだ。 僕の胸が鐘を打つように高鳴る。 あずみはゆったりと弓を打起(うちおこ)していく。 肘につられて透き通るような白い腕があがった。 彼女の呼吸は乱れない。 そのまま流れるように弓を引き分け、 左腕が的に向かってまっすぐに伸びる。 弓のしなり具合とジュラルミンの矢の輝きと、あずみの表情―― なんてきれいなんだろう。 まるで一枚の写真を見ているようだった。 僕は目の前の光景を瞳に焼き付ける。 ふと――遠方の灯火がちらつく程度の瞬目をした隙に、 矢は放たれ、 的を射抜いた。スパンッ 気持ちのいい音が空に高らかと響き渡る。 あずみは両腕を伸ばし、全身で大の字を描いたまま静止していた。 武道を極める上でもっとも大切なのは残心(ざんしん)だ。 自分の射を見つめ、自身の心を見つめ直す。 その時、彼女の頬が、きらりと光った。 ――あずみ、泣いてる? 表情を崩さず、構えも直さずに、 立ち尽くしたまま、彼女の顔がくしゃりとゆがんだ。 胸が熱い。 自分が世界で一番好きなひとが、だれにもはばからず泣いている。 せつなかった。 彼女の涙の理由(わけ)を、僕は知っている。僕だけが知っている。 誰よりも彼女のことを見てきたから。 真野あずみ、そして夏目彼方との出会いは、いまから五ヶ月ほど前のことだ。
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