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ほどなくして五十嵐がエントランスまで降りてきた。すでにスーツを脱ぎ首回りのゆったりしたTシャツに着替えていて、見慣れないラフな姿に少し心臓が跳ねる。
五十嵐が複雑な表情で駆け寄ってくる。
固い表情に驚きと戸惑いが混ざっている。
「お、遅くにすみません」
緊張のし過ぎと、誠意を見せなければという思いで、咄嗟にビジネス口調になってしまう。「お時間、ありますでしょうか」
「……なんでビジネス敬語なんですか」
「わかんないけど、そうなっちゃう」
しばらくの沈黙のあと、五十嵐がぷはっと苦笑し、とりあえず行きましょう、とエレベータ―へと促された。忍は、追い返されることはないようだと胸を撫でおろした。
以前に入ったときは部屋を観察する余裕がなかったのだが、意外にも五十嵐の部屋は和室だった。畳の上に大きなラグを敷き、その上に使い込まれて飴色になったローテーブルを乗せている。ローテーブルのそばに黒の革張りのソファ、部屋の奥側に小さなパソコンデスクとチェア、テレビはない。すべての家具のテイストがバラバラだが、ソファ以外の家具を濃い飴色にそろえているので、不思議と統一感があった。
「お茶、どうぞ」
所在なく立ったままでいる忍の背後から五十嵐がカップを差し出してきた。五十嵐がソファに座ったので少し間を開けて忍もソファに腰掛ける。
先ほど少し笑ったが、以前の五十嵐の笑顔と少し違うことは伝わってきた。以前の、慕う気持ちがにじみ出た、五十嵐本人が嬉しそうな笑顔ではない。何かおかしなことを聞いたらとりあず笑う、口元だけの笑顔だった。以前のあの五十嵐の笑顔を取り戻したくて気持ちが焦る。
「突然ごめん。どうしても伝えたいことがあって……。あと聞きたいこともあって……」
「……」
「会社では話し辛いから、家に押しかけた」
「……」
なにか言って欲しい。いつも二人で過ごして会話が途切れなかったのは、ひとえに五十嵐の気のきく返しがあったからなのだと思い知る。
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