別れと出発

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 昭和十九年、戦争が日一日と、激しくなってきて、日本国中各地の空襲情報が伝えられる様になり、国民学校の児童を待つ家庭に対して、国より縁故疎開と学童疎開のどちらかを選択するよう通達がありました。  縁故疎開は云うまでもなく、親戚の家へ、家族もしくは幼児、児童が身を寄せることです。  学童疎開は児童だけが親元を離れて、教師と空襲がないであろう安全な地で、生活することです。  それは日本の未来を担う子供たちの生命を護る為に、採られた策だったのでしょうか?    私の家族は両親共、九州出身の為、近辺の田舎には親戚も無く、学童疎開の方を選択することになりました。    大阪の西淀川区に住んでいて、当時、姫里国民学校の四年生だった私は、児童数約百六十名位だったと記憶している、第一次疎開組に加わりました。            
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