九夏

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 その男の名は何だったか。高校へ入学すると同時になんとなく始めた部活の顧問だった。剣道部の、そうだ、佐戸先生だ。有名な戯曲と絡め、心の中で“侯爵”とあだ名していた事をようやく思い出した。名前に違わずひどくサディスティックな人間で、事あるごとに、事がなくても竹刀を振り回していたクズ教師であった。若さと体力だけが取り柄のどうしようもない人間だった。  端的に言えば、栗花落はそのサディスティッククズにぶたれる快感をみっちりと仕込まれた。  それだけならば、ただ単に被虐思考だけで生きる肉塊として止まれたのかもしれない。が、やがて侯爵の竹刀がハーフパンツの中の下着のふちを潜った瞬間、栗花落は己の性癖をアップデートせざるを得なくなってしまった。  部活はすぐに辞めてしまったが、侯爵には半ば望んで犯され続けた。女性との幸せな未来はもうやってこないのだなと、顔中に精液をこびりつかせながら諦念した。  毎日のようにルイス・キャロルの鏡の国のアリスを読みながら、春の体育倉庫でサド侯爵の登場を待った。環境に馴染むためには、自ら適応しなければならない。進化するしかない。出来なければ忘れ去られ、淘汰される。赤の女王が言う、「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」というのはこのことだろうと賢明な栗花落は悟った。  まだ季節は夏を迎え切っていなかった。        それから数年経った、梅雨のことだ。     
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