九夏

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 赤い部屋で体いっぱいに降り注ぐ蜩の声を、文庫本片手に呆然と聞いていたあの日、“抜歯”という性癖を手に入れた。  花崎が餞別に寄越した短編集、あのやわらかい瞼の女性が眠っている表紙の本の一作が、栗花落の根底を揺るがした。抜歯をテーマにした短編小説で、頁をめくる毎に鈍痛が増すような圧倒的すぎるほどの文章で、栗花落を消毒液の香る歯科のユニット・チェアへと落とし込んだ。  これほどまでに、“抜歯”とは人の最深部をまさぐる行為だったのか。改めて天啓を受けたような心持ちで、親知らずの鈍痛と、歯茎から沁み出る生臭い血と混ざり合う唾液とに思いを馳せては股間を膨らませた。  その小説の中で、主人公の女性は、“歯の一本一本には自身の体験した思い出が宿る”として、歯を抜くことによって記憶を抹消するという“儀式”を行っている。栗花落は妙に納得し、自身の奥歯のその先に存在を主張している親知らずを抜いてしまえば、いまだ燻る花崎への想いを廃嫡してしまえるのではないだろうかと淡く期待していた。     
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