エス

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 遠い昔、夏祭りの会場で迷子になったことがあった。金魚の尾のように浴衣の帯を靡かせながら、黄昏の裏路地を彷徨っていた。太鼓の音が腹の底で響き、かき氷のカップを片手に焦燥を抱いて屋台の隙間を駆ける。右へ左へきょろきょろと目線を動かしながら母親を探す。ついさっきまで母のぬくい手に繋がれていたのに、既に持て余した左手が冷たい。氷のカップを不安げに握る右手と同じように凍えていた。蒸し返す夏祭りの夜、顎に滴る汗と冷えた手の極限までに相反する温度差に喉が詰まる。泣き出したい気持ちが咽喉につっかえる。  人がごった返していて、歩く傍から誰かにぶつかり、誰かに押され、誰かに舌打ちをされた。こんなにも人がいるのに、独りだ。幼い栗花落はよろめいた拍子にかき氷を路にぶちまけ、そのままぐじゃりと踏んでしまった。母親に買ってもらったかき氷。檸檬味の、きらきらした氷の粒。  遠く哀切に満ちた思い出を踵や濡れた靴下や歩道の濡れ雪と共に追想して、漏れ出たため息が薄く凍った。記憶はやるせない。呼気に混じった雄臭さに惨めさが募る。迷子になって泣いていた子供はもういない。ここにいるのは、男の精液を舐めしゃぶっては愛を渇望する、憫然たる影だ。          乱れた服のまま床に転がり息を整える栗花落を見下ろしながら、花崎は『送っていきますよ』と宣った。右手にはすでに車のキーが握られていたが、慌ててそれを制した。 「先生、お酒飲んだでしょう」 「あ……、そうでした」     
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