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田舎の夏など忘れかけていた。正直に言うならば、方言指導という仕事を受けておきながら地元の言葉さえあやふやだった。
『お前の地元で映画撮るからさー、聖、方言、担当してよ』
あの日、秀野の言葉に麻生は思わずはっと息を飲んだ。
『言ってただろ?俺、絶対、映画撮るって』
秀野はさもない調子で言って、ペラっとした軽薄な笑みを浮かべた。
車の後席ではなく、手塚が助手席に乗り込んだことに、多少の常識はあるらしいと麻生はほっとする。運転手よろしく後部座席に座られたら、もうどう対応していいかわからない。
まだ完全には慣れていない手順で車を発進させる。地元に戻った頃はペーパードライバーに運転ができるのかも怪しかったけれど、田舎道をしばらく走らせていると不安もなくなり、感覚をひとつひとつ思い出すように車の動きがハンドルとともに手に馴染んできた。
運転の慣れなさひとつに、手塚のことをどうこう言う資格も自分にはないのだと思い知る。方言専門と言っても、役者でもない自分が確かな知識や確信も持たず演技指導をしようというのだから。
「麻生さん、でしたよね?」
「ん?そうだけど…何?」
自分の気持ちにフォーカスしていたら、突然話しかけれれて必要以上に驚いた。
「俺、撮影の一週間も前から一人で現場入って何するんですか?」
ーー はぁぁぁぁああああっっ!!!??何でも言えって言ったけど、今更そんな質問!?
麻生は思わず声を荒げそうになるのを理性で抑えた。
分かり合えなさを現実よりも小さく見積もっていた自分自身に絶望する。方言指導の仕事は受けるにしても、一週間前乗りして手塚を何とかしておいてくれという秀野の頼みを断らなかった自分を呪う。
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