第3話 花色衣と月の影

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第3話 花色衣と月の影

 それから程なくして日曜日。息子はサッカー部の練習試合で朝6時に出て行った。夫はいつも11時頃起きてきてゆっくり朝食を食べる。まだ午前8時前。まだまだ時間がある。  私はトーストを片手に、先日購入した和歌の基本の本を読んでいた。 夫の休日は通常は変わらず木曜日と日曜日。木曜日は午後、例の和歌の会に行っている。 自分はパートだ。夫の趣味を楽しむ日だから、と。気を遣ったつもりが裏目に出た訳だ。 考えてみたら平日の昼過ぎなんて主婦が多いのは当然だ。その後、少しの時間ならホテルに行けるだろうし。そういえば、夫と出会った時も受講生は7割方女性で。男性は定年退職した感じの年配の方ばかりだったのを想い出した。 ……より取り見どりじゃん、旦那君よ……  思わず笑ってしまった。コーンスープを一口飲む。 「……へぇ?和歌で恨み節かぁ……」  思わず身を乗り出すようにしてページを捲る。 ~やすらはで 寝なましものを 小夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな~ <百人一首 赤染衛門> (口語訳) あなたが来ないと分かっていたら、とっくに寝ていたのに。信じて待ってたら夜が更けてしまったわ。西に傾くまでの月を見てしまいましたよ。 「……なるほどねぇ。こんな風に和歌で詠まれたら、受け取った男もそう悪い気はしないし、何とか知性と教養で上手い事返そうとするだろうし。殺傷沙汰にはなりにくいかもねぇ」  としみじみと呟く。 夫の相手の黒髪美女を思い浮かべる。確か未亡人だ。子供もいない。夫と共通の趣味、和歌が詠める。圧倒的に私が不利だ。  もし私が、清少納言とか伊勢とか。紫式部とか和泉式部とかの、稀有な女流歌人だったら、夫がその女性に気持ちが傾く前に和歌で繋ぎ止める事が出来たかもしれない。  先日、不倫相手に別れを切り出されてからというもの、憑きモノが落ちたように肩が軽くなった。  もう、変に意地をはったりするのは辞めよう。夫の気持ちをこちらに向けようなど、もう無理だし、一人芝居はもう愚の骨頂だ。 「そうだ!」  私はふと、ちょっとした悪戯を思い付いた。どうせ夫は私に無関心なのだ。少しくらいの事では動じない。和歌では和風美人に太刀打ちできる筈もない。 ……太刀打ちするつもりもないけれど……  一吾の部屋から「ごめんよ」と半紙と墨汁と小筆を拝借し、和歌の本を見ながらある歌を書き写し始めた。
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