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秀ちゃんが車に乗り込んだ。
そうっと、助手席側から覗いてみる。誰かと電話をしながら、何か丸いものを触っていた。電話を切ったのを見計らって、ドアをコンコンと叩いた。
あ?
声は聞こえないけれど、口の形が「あ」だった。
窓が開く。
「どうした?」
疲れている声。呆れている口調。グッとこみ上げるものを呑み込む。
「えっと、車が、停まっていたから。待っていたの」
「待って、今、そっちの車に行くから」
まだ、業者がいるからね、と、付け足し、車から降りた。
あたしの車は狭い。
「狭い」
「ええ」
言葉がうまく出てこない。
「もう、竣工ね。いつオープンなの?」
「今日と明日検査。で、明後日、鍵を渡すんだ」
疲れた、仕事も、家も、
最後に付け足した言葉がとても気になり、
「家もって?なにそれ」
秀ちゃんは、あ、いけない、なんていう形相をし、身体をシートに預けた。
「ん?」
きっと今日で顔を見るのは最後だと察した。
秀ちゃんはおうような口調で口を開いた。
「嫁さんがさ、子宮頸がんの初期で入院してたんだ」
え?
「あ、もう退院したけれど、まだ動けないから、俺が子どもらの世話してんだよ」
ほんとうに?がんって?
視界がぼやける。秀ちゃんの奥さんががん。嘘?
「がんでなないから。がんの手前段階で」
あたしは言葉に詰まった。なにを言ってよいのかわからない。最近メールをしてくれないのも、電話に出ないのも、奥さんのことがあったからなのだ。奥さんが大病を背負っているのに、そんな最中あたしと連絡など取るわけはない。もし、そのような状態で女にあう男なら、そっちもほうが神経を疑る。
とうとうほんとうのお別れが来たと思った。
何度も別れ、何度もくっつき、何度も何度も抱かれた。
「もう、行くわ。家で待ってるから、飯つくらないといけない」
「……、そう」
秀ちゃんは窓をあけ、タバコに火をつけた。
あたしの方を一瞥し、視線を寄越す。
「秀ちゃん」
つぶやいてみる。秀ちゃんは、ポカンと煙を天に立ち上らせ、空虚な空を見上げた。
「また、会えるかな」
なにも言わない。
無言が胸を締め付ける。
「オープンしたら、行ってやって」
秀ちゃんは車から降りて自分の車に戻ってゆく。
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