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背後で男の声がして、びくりと夏生の肩が跳ねる。ゆっくり振り返ると、そこにはひとりの男が立っていた。
黒髪の綺麗な面立ちの男は、黒地にえんじ色の縦縞模様が入った着流しに下駄姿。黒いつり目はまっすぐに、夏生の向こうの球体を見据えていた。
(近所の呉服屋の兄ちゃん?)と頭を捻ったが、普段出歩くときにもこの格好をしているのならば町内でも有名人。すぐにわかるはずである。思考を巡らせるも、それらしい人物は全く思い当たらなかった。
男は、からんころんと下駄の音を鳴らして夏生の横を素通りすると、謎の球体の前に立った。
「お前、大和山に来るつもりだったのか」
男が呼びかける声には、威嚇も、警戒もない。ごくごく自然に声をかけた、そんな感じだった。
すると、球体は、大きな口のままで話し始めた。
「ああ、そうだ。だって、ここはいごこちがわるい。だから、かえりたい」
舌っ足らずな口調で答える球体に、「それもそうか」と男がククッと笑った。
「よかったな。俺が気付いて。今、あっちに送ってやるよ」
「なんだ。あんたが、おおわやまのつなぎやか。いくてまがはぶけた。たのむ」
丸い体が、待ってましたと言わんばかりの様子で揺れる。
男は左腕を肩の高さに上げた。ふわりと袂がはためいて、凛とした歌声が通りに響き始めた。
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