始まり

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始まり

「殺し方は自由よ。自分の好きなようにすればいいわ」 直人は自由という言葉をこれほど非難したことはなかった。その無限の大きな意味に自分という人間が双眼鏡に映ったように小さく見える。屋根に打ちつける雨がはたと大きく響く度に現実へと自分が押し戻されるのだった。両手に繋がれた手錠を何度引きはがそうと努力しただろうか。手首には何重にも赤の線が入っており、腰には大縄が巻かれ、木の柱にしっかりと固定されている。四方一メートルほど動ける範囲が直人の行動の自由だった。 「助けて」 自分の心の中の叫びと実際声に出して百回言っただろうか。声の自由はあったが、一日たったの三十分。しかも目の前に母がいる状態で猿ぐつわは取り払われた。結局いくら叫んでも決して人は来る事はなかったが。自宅は山の麓の民家で隣の家との距離は約一〇〇メートル離れていた。近所付き合いはそこそこあったが、訪問するとあれば誰かのお祝い事であったり、たまに来る近況報告。隣の富子ばあちゃんと会ったのはいつだろうか。いつも採れたての山菜を籠に入れ、ななめ四五度に曲がった体を訝しそうにしながら、ゆっくりと帰っていく。富子ばあちゃんのこの日課がいつしか直人の日常の一部となっていった。  なおも雨がゆっくりと降っているのが屋根裏からでもわかる。目の前に寝転がっているのは小さな赤ん坊。つい一週間前まではこの子の名前すら知らなかった。今思えば名を知らずに殺したら良かったと思う。何故母はこの子の名前を教えてくれたのだろう。「殺し」をした事がない自分自身が、ふと殺したことにより他人になるんじゃないかと思う恐怖が、いつまでも頭の中で堂々巡りとなった。  人生かくれんぼをしなければよかったと思う事はこの機を無くしてないだろう。あれは約三週間の事である。  
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