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か細い女の声だった。
男は耳を疑った。
その声は紛れもなく、去年病で亡くなった妻のものだった。
夜の山には魔物が棲むという──幼い頃に聞いた話が脳裏を掠める。夜の山に紛れ込んだ人間を、魔物が死んだ身内に化けて喰らうのだと。
視界に映る銃口がわなわなと震えた。
魔物など居らぬと思っていた。あの話は、夜の山がいかに危険であるかを教える為の作り話だと。
「あんた、アタシだよ、咲だよ。忘れちまったのかい?」
悲痛な声。
返事をしてはいけない。じっと、朝になるのを待てば、魔物は消える。
「黄泉の番人が、あんたがここにいるって。一度だけ、会いにいっていいって」
嘘だ。戯れ言だ。
「頼むよ、ちょっとでいい、顔を見せておくれよ」
男はごくりと唾を呑み込んだ。
あの話が本当なら、あれは魔物だ。だが……
だが、もし、作り話なら?
外にいるのは何者だ?
「アタシはあんたがいない時にひっそり死んだ。アタシは最期に一目、どうしてもあんたに逢いたかった」
確かに妻は、自分が留守の間に、たった独りで息を引き取った。
しかし……
こんな馬鹿な話があるだろうか。
「お願いだよ、顔を見せておくれよ」
男は銃を構え直した。
もし本当に妻であるなら、勿論自分も逢いたい。
「……枝を2本よけろ。中が見えるだろう」
ややあって、入り口の枝が2本外され、隙間から女の目が覗き込んだ。
紛れもない、懐かしい妻の目だった。
銃口がするすると下がる。
「お咲──」
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