エニシニギを跨いではならない

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 目の前の人物は男女のいずれかも不明で、荒れて汚れた茶色の薄いコートに身を包み、背中を曲げていた。ボサボサの髪はちぢれて絡み、顔もよく見えない。  体臭も異様だ。周囲の乗客が顔をしかめている。これがエニシニギの主人のなれの果てなのか。  その人物は、駅にも着いていないのに移動し出した。僕は、彼(便宜上こう呼ぶ)が、エニシニギを誰かに押し付けようとしていると直感した。  エニシニギの主人でなくなるためには、他の誰かにエニシニギを「跨がせる」ことだという。  彼には悪いが、無関係の他人が犠牲になることは看過できなかった。他人に不幸を押し付けることなど、人間としてやってはいけない。  僕は彼の後を追った。  電車の床に人形が落とされれば、目立つ。だがこっそりと置いてあれば、乗り降りやカーブの際などにうっかり跨いでしまうこともあるだろう。僕は目を光らせた。  人陰で何度か彼の姿は見えなくなったが、電車の中で見失うことはない。彼は隣の車両に移った。  車両の連結部を僕が通ろうとした時、子供の声が聞こえた。  何と言ったのかは不明瞭で分からなかったが、確かに聞こえた。周りには子供など一人もいないのに。  前方の彼を見て、僕は驚愕した。  こちらを向いている。  そして、散らばった髪の奥で、凄絶な笑みを浮かべている。  声は出さずに、しかし、激しく笑っていた。  子供の声はどんどん大きくなっていく。  足が震えた。背中を冷や汗が濡らす。  嘘だ。  まさか。  僕はしゃがみこんで、車両の連結部の床の、鉄板と幌の間に手を入れた。  絶望的な感触がそこにあった。  子供の声が大きくなった。  そしてそれは、止むことなく、いつまでも続いていた。 終
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