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序章 暗い湖の底へ
透明な湖に一艘の小船が滑るように進んでいく。
群青色の夜空には幾億もの星が瞬きながら、地上をしっかり抱き込んでいた。ひんやりとした空気が漂い、微かな霧が出ている。旧式のモーターを積んだ木製の小船を操縦しているのは、髭面の男だ。
男の足元には毛布に包まれた女の遺体があった。モーターを切ると、船は次第に速度を落としていく。その間、男は包んでいた毛布を剥ぎ取って、女の腕や足に重りの砂袋の口紐を結び付けた。
そして、死後硬直した女の白い顔に何度も口付けをして、泣きながらその骸を湖に落とした。
夜中とはいえ、透明度の高い湖では沈んでいく女の白い顔がいつまでも綺麗に視ることができた。男は遠ざかっていく女の顔から目を反らすことが出来なかった。
水のゆらめきと月明かりのせいか、女はまるで生きている時のような微笑を浮かべて、手を振っているようにも視える。
男はたまらない気持ちになって、女の後を追うように水面に飛び込んだ。
十二月の湖はさすがに冷たかった。
どんどん体温が奪われていく。
女を追いかけて沈もうとするが、うまくいかない。
男は沢山の水を飲みながらも、女の名前を叫ぼうとした。
意識が遠のきながらも、何度も何度も女の名を叫び、そして目を閉じた瞬間にこれまでの間違いを全て認めた。
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