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靄がかかったようにはっきりとしない記憶の中で、一度だけ遥夏が泣いていることがあった。それ以降の遥夏は、もう今と変わらない。
きっと何かがあったはずなのに思い出せない。なぜ気丈な遥夏が泣いていたのだろう。大事なことのような気がするけれど、同時に、思い出してはいけないことのような気もした。
(なんで思い出したらいけなかったんだっけ…)
坂上はぬるくなったコーヒーカップを手で包み、ちらりと暗い窓の外を見て笑った。
「彼、いいの? なんかすごく怒ってるけど」
言われて勢いよく窓の方を振り向けば、鬼の形相で誉を見ている久住と目が合った。反射的に顔を背け、他人の振りをする。無駄な足掻きだとは思うものの、目を合わせるのが非常に怖い。
「スマホ翳して何か言ってるけど、聞いてあげたら?」
のんびりと、でも愉快そうに坂上はこの状況を楽しんでいる。
元凶のくせに、と恨みがましい目で睨んでみても、坂上はどこ吹く風で全く意に介していなかった。
たぶんスマホの電源を入れろと言っているのだろう。恐る恐る電源を入れればすぐさま久住から着信があった。沈鬱な気分のまま電話に出る。
「……はい」
『終わるまで、外で待ってるから』
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