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 いつの間に戻ってきたのか、背後から誉の掌ごと強く握り、久住は耳元で低く落ち着いた声で尋ねてきた。驚きのあまり叫びそうになり、寸でのところで堪える。疑問系なのに拒否できない、ただならぬ精神的圧力を感じて恐る恐る振り返えると、丁寧な接客口調とは裏腹に、久住は不機嫌な顔で見下ろしていた。顔の近さに心臓が早鐘を打ち始める。  昔、遥夏の元カレに襲われそうになって以来、人と必要以上に距離をつめられるのが苦手になったのだ。そんな自分を悟られまいと意味のない愛想笑いを浮かべる。  誉はゆっくり扉に向き直り、深呼吸して掛けた手を外した。 「こちらへどうぞ」  久住は何事もなかったかのように誉から離れて元の席へ案内すると、四人掛けのテーブル席の一脚を引き、目線で座れと促した。諦めて誉が椅子に腰掛ける途中、久住は腰を折り顔を近づけ小声で囁く。 「何度も逃げんな。とって食いやしねーよ」  誉は中腰のまま固まり、瞬間的にカッと顔に血液がが集まるのが分かった。幸か不幸かその顔を見られることなく久住はすぐに席を離れ、何一つ取り乱すことなく仕事に戻って行った。誉はカクカクとぎこちない動きで着席し、ひとまず顔の火照りを落ち着けようと両手で顔を覆う。  自分でも理解し難い羞恥心が襲ってくる。『何度も逃げんな』は、おそらく初めて言葉を交わしたあの日のことを指しているのだろう。しかしなぜだか、後に続く『とって食いやしねーよ』という言葉に異常に反応してしまった。まるでいかがわしいことでもされるような錯覚に陥ってしまったのだ。     
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