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 誉はしばらく目の前に置かれたビーフシチューを眺めていたが、立ち上る湯気とデミグラスソースの濃厚なにおいに思わず生唾をごくりと飲み込んだ。今日はモデル事務所に立ち寄ったおかげで夕飯はまだだ。料理を振る舞われた理由が気になりつつも食欲には勝てず、カトラリーの入ったケースからスプーンを取り出し、心の中でいただきますと手を合わせた。  口の中で広がるデミグラスソースの旨味に玉ねぎの甘みとコク、ほろりと煮崩れる牛肉の柔らかさに誉は打ち震え、静かに感動する。  母親の作る家庭的なビーフシチューしか知らなかった誉にとって、こんなに美味しいものが世の中にはあるのかと、驚きで思わず久住を探した。いち早くこの感動を伝え、わがままにも共有してほしいと思ったのだ。  忙しなくホールを行き来する彼を見つけると目が合い、声に出さず「うまい」と言えば、久住は口を片端だけ持ち上げ笑った。ほんの少し、誉だけしか気付かないくらいの笑みだったけれど、心臓がキュッとしまる。痛いような苦しいような、でも嬉しいような。   不思議な感覚を抱きながらも、誉は空腹も相まって、皿を空にするまで休むことなくスプーンを口に運んだ。  久住に対して素直に格好良いと思った。給仕する立ち振る舞いも、フロアに目を配りながら歩く後ろ姿も、自分だけに見せた、あの一瞬の笑顔も。  あのままずっと笑顔で見つめられたら、確実に赤面していたに違いない。そのくらい格好良いと思ったのだ。だが杞憂だ。久住はそんなことをするはずがない。特別室で繋がっているだけの人間に。     
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