第1章

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 しかし、たいがいの物は、買うときは高いが、売るときは買い叩かれるのが通例だ。不動産屋に相談すると、家を売っても、購入額の半分以上が借金として残ることがわかった。  不動産屋と話しているうちに、妻に対する怒りがさらにわいてきて、床に転がって暴れだしたい気分になった。  よほどストレスが溜まっているらしい。  いや、妻のことは、もう、どうでもいい。  問題は、ヨシキだ。このままでは、ヨシキを大学に進学させられないかもしれない。ヨシキに対しては、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。  ヨシキに、正直に事情を話してしまおうか。そうしたほうがいいのではないか。中学二年生といえば、難しい年ごろだ、とよく聞く。しかし、 ヨシキは、ひねくれたところもなく、素直な子だ。そのうえ、優しくて、頭も良い。丁寧に話せば、しっかり受け止めてくれるに違いない。それにしても、私たち夫婦から、どうしてヨシキのような良い子が生まれたのか、不思議に思うくらいだ。  ふと気がつくと、正面から、隣の奥さんが歩いてくる。  彼女の息子と私の妻が駆け落ちして以来、隣の奥さんは、私を敵視している。いつも、大きく見開いた目に憎しみを滾らせて、私を睨みつける。まるで、すべての非が私にあるかのように。  人間から見れば、私たちは顔が真っ黒だから、表情なんかないと思うかもしれない。目玉も、全部が瞳で真っ黒だ。それでも、顔と目玉の境界線はあり、その目に浮かぶ感情も、私たちは読み取れる。  私たちは全身が黒ずくめだから、人間は、私たちをみな同じものだと考えている。しかし、当然ながら、私たちは一人一人を区別できる。それはたとえば、蟻の一匹一匹を私たちは区別できないが、蟻たちはお互いの違いを認識できる、というのに似ている。  隣の奥さんは、今日も、目に憎悪の火を燃やしながら、歩き去って行った。  私はただ軽く会釈して、うつむくしかできなかった。  私は、ギクシャクしながら進む。  今日も、あいかわらず、腰が痛む。  あまりにひどい痛みなので、休日だった三日前に、カイロプラクティックの施術院に行ってみた。  施術師は、てのひらで私の腰のあたりをこね回すようにしながら、  「ずいぶんと歪んでますねえ」  と言った。  「前は腰の左側だけが痛かったんですが、最近は右側にも痛みが出てきて、困っています」  と私は言った。
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