第1章

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 「右側が痛くなったのは、左の腰をかばったせいでしょうねえ。これは一度では治りませんよ。もう数回、いらしていただいたほうがいいでしょう」  「……」  「ところで、お客さん、ご職業は?」  「私は、防衛官です」  「防衛官? それは大変だ。防衛官は体が資本だから、こうやって調子の悪いところがあっちゃ、困りますね。それは、やはりしっかりと治さなきゃ」  「でも、私ももう歳だから、希望すれば事務方に回してもらうことも可能なんですよ」  会話の流れ上、こう言ってみたが、実際は、事務方に回るつもりはなかった。自分の年齢やら、体の動きが悪くなっていることやらを考えれば、事務方に移ったほうが本当は良いのかもしれない。しかし、そうなると、特別防衛官ではなくなるから、給料はおよそ二割減となる。それは家計を直撃する。  それに、私はまだ、第一線で働きたい。人間と戦う特別防衛官は、防衛隊の中で、誰もが憧れる花形の地位だ。これは私の誇りでもあるし、ヨシキに対して父親としての沽券を保つためでもある。妻が逃げだしたことでその沽券が揺らぎ始めているのに、今、特別防衛官の職まで解かれたら、ヨシキがどう思うことか。  「そうなんですか。それなら、そうしてもらったほうが、いいんじゃないですか。ほら、例の問題もありますし」  施術師の声が、急に、意味ありげに低くなった。  例の問題とは、防衛隊の出動範囲を広げるという、現在国会で審議されている法律のことだ。  もし、その法案が通れば、私たち特別防衛官は、採石場まで出動しなければならなくなる。あちこちでダイナマイトが炸裂する中、戦闘を行いうことになるわけで、そうなると、防衛官に死者が出るかもしれない。  アンベン首相は、人間が魔界を侵略する恐れを最小限にとどめるために是非とも必要な法案です、と国会で演説している。しかし、人間の世界に出て行っているのはこちら側であって、これまで、人間が魔界側に派兵してきたことはない。  この小ザカしくて小ズルい首相は、防衛隊の中では嫌悪と軽蔑の的である。しかし、立場上、表立って首相を批判することはできない。防衛隊の幹部は、法令に従って任務を果たすのみです、と発言している。小ザカしくて小ズルくて小心な防衛隊の幹部連中は、どうせ前線に赴くことはないから、立派な建前を言えるのだ。
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