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男は慌てた様子で、子供を慰めるように声をかける。そうは言われても、一度堰を切ってしまったものはどうしようもない。しかも、泣いているものだからひくひくと引き攣れた呼吸をしてしまい、息が苦しくてなおさら涙が止まらない。
そのとき、月を隠していた雲が切れ、淡い明かりが二人を包む。
ほんのりと、盗人の顔が見えた。通った鼻筋にきりりと吊り上がった眉、そして何より千鶴を見る目が、強く光って存在感を放つ。じっくりと、相手を奥まで見通そうとしているかのような目だ。
いい男だ、盗人なんてやめて役者でにもなればいいのに、と千鶴は場にそぐわず埒もないことを考えた。
男も初めて千鶴が見えたらしい。千鶴の涙に濡れた目と、呆然と開けられた赤い唇を見ると何やら驚いた顔をして、少し腕の力が緩んだ。
(しめた!)
千鶴はその隙を見逃さず、渾身の力で男を突き飛ばして立ち上がる。しかし勢いが付き過ぎて尻餅をついたうえに、春の夜の冷えた空気が急に体へ流れ込んで、思わず咳き込んでしまった。
「あー……痛え」
千鶴の精一杯の抵抗ではあったが、男は少しよろめいただけで何の傷も受けていないようだった。男の手が千鶴に向かてぬっと伸びる。
(今度こそ殺される……)
覚悟を決めて、相変わらず涙が止まらない目をかたく瞑った。きっと紙をちぎるみたいにして打ち捨てられるだろう。喉がひゅうひゅうと鳴って痛い。
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