1章

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今朝方に読んでいたのは、近頃東で密かに流行っているらしい読本である。貧乏旗本の三男坊がこっそりと家を抜け出して諸国を漫遊しながら、持ち前の正義感で各地の問題を解決していくというもので、本筋は勿論、諸国の名物などを食べ歩く様が人気を博しているそうだ。 昨日丁稚に買って来させたばかりの本だが、成る程確かに、千鶴が本の中でしか見聞きしたことのない土地の地物が溢れるほど登場しては、三男坊の口に吸い込まれていく。しかし食べ物だけでなく情景も克明に描かれているし、出てくる人間も生き生きと動いて、なかなか読み応えがある。千鶴は時が過ぎるのも忘れて読み耽った。 「千鶴、いるだろう」 ふいに声をかけられた。低く、威厳のある喋り方――父、清右衛門の声だ。気づくと夕暮れ時で、千鶴の部屋は陽に赤く染まっていた。障子の向こうにいる清右衛門の陰を抜いて。 「今夜からあちらに入りなさい。夕食を食べたらすぐに支度をさせるから、お前も整えておくように」 「……はい、父様」 清右衛門が行ったのを確かめてから、そろりと障子を開ける。眼前に広がる、綺麗に整えられた大きな庭の奥に、白壁の蔵が見えた。 あちら、である。
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