紫苑

16/33
前へ
/33ページ
次へ
カフェに入って、入社祝いとコーヒーをおごってもらいました。あの人がブラックコーヒーが好きで、私は少しでも大人ぶりたくて同じものを頼んでいました。席を見つけて座りました。もう社会人なのかと、あの人は本当にびっくりしていました。笑うと目尻に小さな皺ができる人で、その皺の彫りが深くなった気がしました。会えなかった間、素敵に歳をとっているのがみてとれて、私はすごく嬉しくなりました。ただ向こうから誘ってくれるなんて、夢にも思いませんでした。これはチャンスだと携帯番号を聞こうとした時でした。「あの、」「俺、」ドラマのワンシーンのように、声がかぶりました。私は話のリードをあの人に譲りました。 「それじゃあ、お言葉に甘えて。俺、結婚すんねん」私は頭の中が真っ白になりました。あの人がこの土地にいるから、またどこかで会えると信じて、この土地で就職したのに、いつか成長した私をみて、好きになってもらおうと思っていたのに。いくつかの会話をした気がするし、別れ際名前を呼ばれて何か言われた気がするんですけど、正直全然何も思い出せないんです。私は「おめでとうございます」を何度も言っていました。これが精一杯でした。私は笑顔で話ができていたか、自信がありません。でも彼から結婚の話を聞いても何故だか涙は流れませんでした。どこが好きだったのか、本当に好きだったのか、今でもよく分からないんです」 「素敵な思い出なんですね」 思い出そうとしても、それ以外の記憶が思い出せない。 「どうなんでしょうか。よく分かりませんね」 笑ってごまかした。
/33ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加