紫苑

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友人が好きなアーティストが演奏するらしく、よかったら一緒に来ない?と誘われて、私はカジュアルバーにやってきた。今日は複数の人が歌うようで、名前を聞いても知らない人ばかりだった。友人の好きなアーティストの出番はすぐにやってきた。どうせ暇だったんだと友人の好きなアーティストの演奏を聴いて、帰ろうかと腰をあげた時だった。ステージの上で次のアーティストがピアノのチューニングを始めた。私は何故だか妙にステージにたつアーティストが気になった。はじめは季節外れの半袖、ハーフパンツの男の人が1人でピアノを弾く物珍しさが目を引いた。次に彼が奏でるピアノの音色が耳を惹いた。私は持ち上げかけた腰をもとに戻してしまった。お辞儀をして彼は演奏を始める。留めを刺したかのごとく、彼の歌声は私の心をさらった。 彼は照れくさそうに笑いながら言った。 「自分で言うのもなんですが、今弾いた曲、泣いちゃうくらいいい曲なんですよ。」 やはり彼には見られたのではないかと思った。私の目は少し霞んでいたはずなのに、なぜか彼が笑っているように感じた。私はつられて笑ってしまった。「可笑しな日だ」そう私は心の中でつぶやいた。 私は彼への拍手が鳴りやみ、彼がステージからいなくなったのを確認してから、友人たちにお手洗いと言って席を立った。出口近くでスタッフらしき人からB5のチラシとCDをもらい、化粧室に入った。鏡に映る私の目と鼻は、ほんのりピンク色をしていたが、化粧直しをしてしまえば分からない程度だった。もらったチラシに目をやると、チラシに彼の名前が書いてあった。彼の名前を呪文のように心の中で唱えてみた。 「こういう活動をしているアーティストもいるんだなあ」 すれ違った客が振り返った気がした。無意識に呟いていたようだ。私は素知らぬふりをして、ファンデーションとリップを直して、化粧室を出た。     
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