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川面は穏やかな流れに見えても、川底に溜まったヘドロの淀みには鈍感だった。尾山圭介は妻の由里が寝室を別にしょうと申し出た時も、お互いの時間帯も体感温度も違うから、気楽でいいと軽く受け流した。週末はストレス解消に平塚のスナックへ通うと聞いても、藤沢近辺より開放的だと賛成した。酒の臭いをプンプンさせ千鳥足での朝帰りも、責任が持てるならと容認した。家事全般を妻に押し付けている罪の呵責が、文句を言う資格も、諫める責任も取り上げた。由里は父親に似て酒はいける口だ。酔えば陽気な呑み助の筈が、酒量が増すに連れしつこく絡み酒癖が悪くなった。下戸の圭介には酒に溺れる気持ちも、開放感も分からない。羽目を外し、へべれけになる醜態を晒す気が知れず、白けた気持ちで相手にしなかった。大きな転機は義父の急死だった。娘の美登里が小学五年の冬、クモ膜下出血で庭で倒れ、あっけなく他界した。由里は母親が独りで寂しいからと、風呂も食事も生活の殆どを庭続き母屋で済ませ、泊まる日も多くなった。圭介も僅か十数歩先の家なのに、母、娘、孫の団欒を邪魔する気兼ねと億劫さが、家族と過ごす足を遠ざけた。
実質的には、殆ど家庭内別居の状態だった。
ある土曜の夜、美登里は母屋に泊まり、由里だけ夜中に自室に帰って寝た気配がした。
すでに寝室を別にして一年になる。それでも年に二、三度は堪らなく由里と寝たくなる。
圭介は由里の部屋をノックしょうと、上げかけた手でそっとノブを回した。手探りでベッドに近づこうと五、六歩中に入った辺りで、踵が生温かいヌルッとした物を踏みつけた。うわぁっ~、飛び跳ね、慌てて壁のスイッチを点け、仰天した。ゲロしたばかりの汚物が白い糸を立て、つんとすえた臭いを放ち、その先に、正体のない由里がうずくまっていた。
「由里!大丈夫か? 気持ち悪いのか? 」
圭介は嘔吐物を処理し、抱き起こして水を飲ませ、寝巻きに着替えさせようとした。
「うるさい。触らないでよ! あっちへ行け! 夜這いの助平ったらし。この野郎!」
ドスの効いた腸の奥から絞り出す濁声で罵倒し、足蹴りで追い払った。まるで別人だった。
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