第1章

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キー、キーと悔しがる森下君はまるで猿みたい。森下君は過去の栄光ばなしか、儲け話しかしないので、男の子って本当に馬鹿だなあ!と存分に思わせてくれる。感謝している。本人は感謝されたくはないだろうが。恋人の顔がだんだん記憶からぼやけてきた。このことも、森下君にはあずかり知らぬことではあるのだが、感謝している。  小夜が失踪したのは、4度目の句会をした次の日の朝食前だった。起床介助を終えて、森下君がリビングに食膳を運んでたらいなくなってたのだ。すぐに施設の職員全員に通達が行き総動員で捜索したが見つからず、10時前には警察と消防に連絡するか?と事務所で動議が出るまでに深刻な事態となった。  前の施設でも徘徊癖で屋外までで歩いていたことがあったと書類にはあったが、入所して3か月、まったくそんな素振りがなかったので職員はみな油断していた。  私はその時、例の手帳のことを思いだした。あれは、小夜のベッドの枕元にちゃんと置いてあった。ヒントが、あるかもと思って手帖の中をためらいなく開いた。革表紙の下にはまっさらの小型ノートが挟んであり達筆で1ページにつき5句俳句が記されていた。日記、と小夜が言ってたのはこの俳句のことか。ページの上端には日付け。そして一日ぴったり5句ずつ。  4月10日の日記には『桜など咲かないものと思ってた』という句が記されてた。最初に私が句会をやった日だ。小夜婆は部屋から出てこなかったが、ドア越しに話を聴いてて、窓から見える風景を詠んでいたのか。句の形で日常を書き留めていたのだな、小夜婆は。  私は、小夜は近くに、何処にも逃げずに、私の、ここの近くに必ずいることを確信した。  隣室の寝たきりの、点滴中のミ婆が 「トワ、トワ」 と声を上げた。  「とわ?永遠?とわ、じゃなくてとや、とうや、ととや、ここや、そう、『ここや』って言ってるんじゃないか?」  小夜は、ミ婆の隣でミ婆を抱きかかえるようにして寝てた。  まさかミ婆のベッドの中に潜り込んでいるなんて。わたしはポケットのPHSで、主任に小夜さん無事発見の連絡を入れた。    私はミ婆は看取りで、弱りきってて全然意思疎通できないと思っていた。小夜の体温という、今となっては得がたい温もりが、ミ婆の意識を再活性させたのかもしれないな。
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