第1章

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精一杯の猫なで声で、時には低音の穏やかな口調で促してみる。 「けっこうです」 と一蹴される。  かつては私も利用者の健康維持のため真剣に、飲まそう動かそうと努めてきたが、今ではアア、そうかよ、好きにしろよと心の中で駑馬を飛ばすようになった。反論できない、きつい認知症なら口に出すこともあった。こんなことにたいした意義はないのだ。もう再来週いくか来週いくか、明後日いくか明日いくかの違いしかない人たちに一日1500㏄以上の水分摂取基本指針って本当に必要か。現行法上、一般的に決められた指標、モラル。疑うと穴だらけだ。でもナースはナースの職責、給料、プライドのため、介護士もその給与に見合った責任感、相応のプライドのために盲目的に守ろうとしているだけだ。  食事量にしても同じだ。小夜婆のADL、生活能力はまだ把握しきれてない。認知症の度合いも。前にいた施設から、看護サマリーが送られてきているので、その書類を一瞥すればわかるのだが、そのサマリーを書いているのはケアマネ、相談員、そして私たちと同じ腐しかたをしている介護職員だからあてにはならない。書類をまかされるレベルに達してることイコール、ベテランのワーカーだ。この仕事を続けることが出来るのは、理想を持ち続けてるやつじゃなく、氷のようなメンタルを有してる情の薄いやつだ。  小夜は私の目に浮かんだ侮蔑を感じとったのか、顔に微小な変化が現れた。薄ら笑いを浮かべたのだ。私はドキッとした。心の内を読み取られたか、と恐れを抱いた。それほど絶妙なタイミングで、小夜婆は残っている左の八重歯をニタッと口角から光らせたのだ。  小夜は「しょうがないのか」と、とても小さな声で呟き、私の後についてきた。残酷な気持ちを懐刀のように抱いていた私は、調子を狂わされ(チッ、何だよ)とひとりごちて全身のこわばりをといた。いくつか強引に小夜婆を部屋から引っ張り出すプランがあったのだが、必要なくなった。  その日から小夜は食事と茶の時刻には自主的に居室からリビングに出てくるようになった。これは生活に意欲が出てきた、とか自らの生を前向きにとらえるようになったとかいう、立派な改心などというのではない。私たち職員にぎゃあぎゃあがなりたてられるより、そっちの方が精神的に楽だという判断なのだ。他の入居者と同じく、メンタルは劣化したのだと思う。
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