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高齢者にとっては湯呑み1杯の茶を飲み干すだけでも大仕事なのだが、飲んだふりをして窓から捨てても、私たちは全量飲んだことにしてPCに水分量入力をする。記録上は健康優良婆だ。水分摂取記録に誤差があることを気にするような、初々しい職員はいない。アクシデントが起こらなければ、ベテラン職員たちも下手人を探したりしない。要領よく仕事をすることだ。そして、小夜だが、小夜は私たちの仕事ぶりを完全に把握しているみたいである。それは表情から勝手に私が憶測しているに過ぎないんだが、小夜は本当に認知症者だろうか。そうだとしても、何かのはずみで脳が正気を取り戻したのだろうか。小夜の眼光には明晰な意識が覗けるのではないか。そんな気がしてならなかった。
私はかなりの後ろめたさを小夜婆に抱いたが、自責の念は続かなかった。他の利用者たちの世話で忙殺されるから、どのような信念があろうが動ける利用者はほったらかしにされるのだ。これはどうしようもない、必然の理だ。
そこまで、介護業界の末期とも呼ぶべき現況を、小夜が知る由もなかったろう。生来の勘の良さで、一番自分が安楽であるラインを伝い歩きするように、うまくやろうとしてくれた、だけだと結論づけた。しかし小夜はレクレーションへの参加だけは、頑なに拒んだ。
パズル。塗り絵。折り紙。歌を歌うなどが主だったレクだが、清拭用タオルの束を整えて均等な大きさに鋏で切り、4つに畳むという軽作業を利用者にやってもらうこともある。
小夜は、そちらなら、と1日30分はリビングのテーブルで清拭畳みを手伝ってくれるようになった。
「テレビ、点けましょうか?」
私は気遣って声をかける。
「ラジオも、懐メロのCDもありますよ。良かったら作業の間、音楽流しましょうか?」
と訊いてみた。小夜は首を横に振り、拒んだ。
その手の音が嫌いなんだろうか。そのへんがコミュニケーションの糸口かなあ、と私は少し引っかかりを覚えた。小夜婆が首を振る前に、CDラックに視線を走らせていたのを、私は見逃さなかった。
「小夜さん、ひょっとしてその棚に好きなやつがなかったの?懐メロ、童謡以外で聴きたいの、ある?私の家にあるやつ、今度持って来ようか?」
小夜婆は一瞬私を見て、それから少し目を伏せてぼそっと
「JAZZ」
と言った。しかもネイティブみたいな、とても流暢な発音で。
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