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おい、小夜、なんか、めっちゃ詳しいじゃないか。森下君もリビングに出張って来て
「小夜さん、次から司会をやってよ。典子ちゃんじゃ全然だめだよ。何?昔国語の先生でもやってたの?」
と興奮気味に尋ねた。
サマリーには一切そんなこと書かれてなかった。戦争の時は工場員をやってたと、戦後は色々な職種を転々としてきたとだけ記載があった。学生の頃めっちゃ勉強していたのかな、小夜婆は?介護の仕事を始めて、ADL(生活能力)が上がって寝たきりから、歩行器を使って歩けるようになった爺さんを一人だけ知ってるけど、こんな教養を披露されたのは初めての体験だった。今まで牛だと思ってた動物が、いきなり人語を喋ったような驚きだった。
森下君が私と目を合わせて、(やはりこの人、ただものじゃないよなあ)という顔をした。そうなのかな。私は、私たちは日本の俳句史に爪を残す歴史的な人物を、そうと知らずして、世話しているのだろうか。選挙権も戸籍もちゃんとあるのに、選挙にも行けず、いなかったことにすらされている老人たち諸共。
小夜のベッドの枕元には茶色の革表紙の付いた手帖がいつも置いてあった。手帖の表紙にはノック式の百円ボールペンが刺してあった。ボロボロの皮のケースの中身は、白い綺麗なノートが挟まれていて何回も入れ替えられて使い込まれているらしい。寝る前とか、おやつ時間の後、居室に入った時に手帖に小夜が何か書きこんでいるのを見た。ベッドに寝て、壁側に頭を向けて左側臥位になり、静かにペンを動かしてるので顔は見えない。
「いつも、なに書いてるんですか?」と昼食の声かけに訪室した際に訊いてみた。
「まあ、日記みたいなもんだ」
と照れたように、ニタッと笑って説明してくれた。90代の人の夜な夜な綴る日記ってどんなだろう?何が書かれてるんだろう?と気になった。しかし、少しの引っかかりだ。私はメールをくれなくなった恋人の心情をひどく心配してたし、しょせん小夜はすぐに退居して会わなくなる、
泡沫の存在に過ぎなかった。
恋人からのメールは依然来なかったが、全然好きじゃない男からのメールは毎日のように届く。友達の結婚式の2次会行って以来、ひと月以上続いてる、軽い苦痛の種だ。
「ねえ小夜さん」
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